『アイリスと茨の王』(前編)


 

――古き物語は語る。

 

それは独りの王と、一人の少女の物語。

独りだった王が少女と出会い、独りではなくなった物語。

 

全ては瞬きのように刹那の思い出で、全てを焼き尽くす炎のように情熱的で、全てと引き換えにできるほど鮮烈で、全てを捧げた先の未来へ続く物語。

 

長きにわたり、人々の心に強い強い炎となって残り続ける、王と少女の物語。

その、綴られる物語の、綴られなかった史実を孕んだ古の物語である。

 

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――神聖ヴォラキア帝国第十九皇子、ユーガルド・エルカンティ。

 

のちに『荊棘帝』と呼ばれることになる赤子は、誉れあるラドカイン・ヴォラキア皇帝の血を継ぐ十九番目の男児としてエルカンティ家に生を受けた。

 

代々ヴォラキアに仕える名家の一つであるエルカンティ家は、『帝国民は精強たれ』という鉄血の掟が息づく帝国において、戦働き以外を認められた稀有な家だった。

元来、戦場で勇猛さを証せないものに厳しいヴォラキア帝国で、その政治力や多方との繋がりを評され、特別上級伯という地位を用意されたのはエルカンティ家だけだ。

 

そうしたエルカンティ家の特別待遇は、他の家々にとって面白いものではなかった。

奸計を巡らせ、帝都の機嫌を取ったなどと陰口を叩かれるだけならまだしも、この貴族同士の鞘当ては刃が抜かれるまで収まることはなかったのである。

 

――結局、それが誰の企てだったのかは後世でも明らかになっていない。

 

確かなことは、エルカンティ家を排除したいと考えた何者かの悪意が、まだ幼子であったユーガルド・エルカンティへと矛先を向けたこと。

そしてその悪意はユーガルド・エルカンティの人生を、ヴォラキア帝国の歴史を、世界の命運さえも決定的に捻じ曲げる結果を生んだということだった。

 

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エルカンティ家の領地、その端にある何の変哲もない小さな村が襲われた。

これといった特色もないその村が野盗の標的となったのは、被害者と加害者、双方の不運が重なった結果というべきなのだろう。

豊かでない村を襲うのは、野盗にとっても実入りが少なく、危険な行いだ。

それでもなお野盗たちがそれをしたのは、それだけ彼らが追い詰められていた証拠で、手を伸ばせる位置にあったのがたまたまその村だったという話。

 

――そしてその村の近くで、エルカンティ家の常備軍が調練を行っていたという事実が、村と野盗の運命を対照的に違えた。

 

エルカンティ家の家紋が描かれた旗が村中に掲げられ、正規兵に蹂躙された野盗たちの亡骸が一斉に焼かれると、その後は村で宴席が設けられた。

野盗の討伐後、村の復興の手伝いを申し出た領兵を歓迎する席だ。村人の厚意を無下にするまいと、兵たちには酒と食事、それに歌が振る舞われている。

 

「――――」

 

その喧騒を遠くに聞きながら、ユーガルド・エルカンティは一人丘の上にいる。

夜風に乗って届く歌と笑い声、それから距離を置こうと星に道案内をさせるうち、気付けばユーガルドは小高い丘に立っていた。賑々しさに混ざれないその姿は頼りなく、まさか誰もそれがこのエルカンティ領の若き領主だなどと思わないだろう。

 

しかし、御年二十歳となったユーガルドは紛れもなくエルカンティ領の領主であり、領内の村が野盗に襲われる危機を未然に防いだ立役者だった。

 

この頃噂されていた、隣接する領地を荒らしていたならず者の集団。様々な土地のはぐれ者が結成した混成集団が、エルカンティ領にも流れてくる噂を聞きつけた。

そこでユーガルドは常備軍の調練を装い、可能性の高い村々の付近を巡回、今回の野盗の討伐に繋げる差配をしたというあらましだった。

 

もっとも、ユーガルドはそうした事実をあえてひけらかしたりしない。

ただ、領民の平穏が致命的に壊される前に守られたと、その事実だけあればいいのだ。それ以上、領民たちに意識させる必要はない。――『茨の王』のことを。

 

「――――」

 

ユーガルドの傍に近寄るものは、茨の縛めに苛まれる。

それはユーガルドが物心ついたときから変わらない事実であり、彼の人生に原因不明に付きまとう逃れられない宿業だった。

実の家族も使用人も、領民や罪人も区別なく傷付ける茨の縛めは、ユーガルドを人々に『茨の王』と呼ばせ、一人で生きることを余儀なくさせた。

それ故にユーガルドは今も、人々の喜ぶ喧騒から離れ、丘の上に一人でいる。

 

「――――」

 

宴には混ざれないが、ユーガルドがするべきことは多い。

無理を言って同行した調練、遠目に見た限りでは領兵たちはいずれも真剣に従事していた。その後の野盗の討伐においても、その働きぶりは目覚ましい。

言葉をかけられない分、一人一人に正当に報酬で報いなくては。

 

そう、一人でも、すべきことは、多い。

 

「真っ暗闇を眺めるより、空の星を数えた方が心が安らぎませんか?」

 

背後から声をかけられたのは、そう思索に耽っていたときだった。

ユーガルドは稲妻に撃たれたような衝撃を覚え、自分の油断をひどく悔やんだ。これほど無防備に、誰かを自分に近付けたことなど久しくない。

ヴォラキア皇族の一人として、『茨の王』として、あってはならない失態だった。

しかし――、

 

「あの、兵隊さんたちの、まとめ役の方ですよね?こんなところに一人でいたら寂しくないですか?」

 

とっさに振り向いたユーガルドの視界に、亜麻色の髪を一つにまとめ、化粧っ気のない色白の肌をした素朴な顔立ちの村娘が立っていた。

不思議と、平然と、その腰のあたりに十数頭の黒羊を群がらせながら。

 

「何ゆえ……」

 

「はい?」

 

「何ゆえ、そなたはそうも多くの羊に囲まれている?」

 

牧歌的という表現をこれ以上ないほど体現した少女に、衝撃の抜け切らないユーガルドは目で見たままの疑問を尋ねてしまっていた。

本当なら、ユーガルドは茨が少女の心の臓を縛める前に遠ざけなくてはならなかった。

だが、そうしなかったユーガルドの問いに、少女は「そうですね」と自分の腰に鼻を押し付ける羊の一頭を撫でながら、

 

「……人徳、ですかね。昔から好かれやすくて。動物に」

 

「そう、か。……人徳とは、動物にも通用するものなのだな」

 

「しまった、真に受けてる……!じゃなくて、普段からわたしが世話をしているからですよ。この子たちの食事と散歩は、わたしが任された仕事なので」

 

少女は片手で羊を撫で、もう片方の手をパタパタ振ってそう答えた。それから彼女は視線を村の、かがり火の焚かれた宴席の方に向けると、

 

「ええと、兵隊さんは動物がお好きじゃないんですか?だから村から離れて、こうして一人でぼんやりしてるとか?」

 

「――。いや、羊や牛を嫌って村から離れたわけではない。そなたの村にとって羊毛と乳は欠かせぬ収入源であろう。今後もより多く、より大きく育てよ」

 

「村のお財布を真剣に考えてくれてる……」

 

村の畜産業についての私見を述べると、娘に大層驚かれた。

その反応に自分の受け答えを振り返るが、おかしな点は見つからない。そもそも、何がおかしいのかを見極める知識も経験も、ユーガルドには足りなかった。

 

「もしも私の言葉が気に障ったならば謝罪しよう。そなたを侮辱するつもりも、村で立てているだろう今後の畜産業の年間計画について異を唱える目的もなかった」

 

「全然全然!気に障ったとかそんなじゃないので……あと、この先、村の羊毛とかどうやって売り込んでいこうかみたいな話し合いの結果も知らないです!」

 

「なに?だが、村という小さな共同体で、働き手の一人である立場のそなたにそうした方針が共有されていないというのは不自然ではないか?……もしや、そなたは村のものとうまくいっていないのでは?」

 

「そ、そんなこと丘で一人で黄昏れてた人に心配されたくないんですけど!」

 

「――――」

 

「あ」

 

言ってしまってから、言ってしまったという顔で少女が自分の口を塞ぐ。が、言ってしまった言葉は取り消せない。少女に限らず、ユーガルドであろうとも。

 

「道理だな」

 

そう言い残し、ユーガルドはやはり機嫌を損ねたらしい少女に背を向ける。

最初からこうしておくべきだった。思いがけない距離感で他者と言葉を交わす貴重な機会だったが、やはり『茨の王』は人と触れ合うべきでは――、

 

「待って!」

 

――ない、と結論付けた瞬間だ。

不意に伸びてきた手に袖を掴まれ、ユーガルドは今度こそ絶句した。

 

「――っ」

 

ただ近付くだけでも、ユーガルドの茨は他者を縛める代物だ。

ましてや実際に触れればどうなるか。思い出されるのは、血を吐いて悶え苦しむ乳母の姿だった。茨の縛めに苦しめられながら、その事実を伏せてユーガルドと接し続けた乳母の末路――それ以来、ユーガルドは誰とも触れ合ってこなかった。

着替えや部屋の掃除まで自分でしている皇族など、ユーガルドの他にはいまい。

 

そのユーガルドに触れ、引き止めたのだ。

耐え難い苦痛が少女を蝕み、世界を呪うような絶叫がその細い喉から上がる――、

 

「ど、どうかしました?」

 

はずだった。

だが、茨に蝕まれ、苦痛に悶えるはずだった少女は怪訝そうにユーガルドを見ている。その手は間違いなく、ユーガルドの服の袖を引いていた。

 

「何故……」

 

ありえなかった。ありえないことが起きていた。

何故、この少女はユーガルドに触れても、茨の縛めに苛まれずにいられるのか。

 

「あ!ちょっと、あなたたち!?」

 

そのユーガルドの疑問への答えとばかりに、少女にまとわりついていた黒羊たちが一斉に悲鳴を上げ、我先にと丘から逃げ出していってしまった。

ユーガルドの茨の縛めは、相手が人間でも動物でも区別しない。

止まり木を求めて降りてきた小鳥の心臓さえ、茨は容赦なく止めてしまう。だから、羊たちが逃げ出したことに不思議はなかった。

 

「もう!あの子たちったら、急にどうしたんでしょう」

 

「おかしいのはそなたの方だ」

 

「え、急に失礼……!」

 

「む、いや、そうではない。そうではないが……」

 

心外、と自分の顔を指差した少女に、ユーガルドは言葉を濁した。

正しく言葉を選びたいが、見つからない。窮地に陥ったとき、頼れるのは過去の経験則だが、成功体験も失敗体験もユーガルドの中には蓄積がなかった。

だからわからない。わからないのだが――、

 

「あの、怒ってないんですか?」

 

「私が?むしろ、そなたを怒らせたのは私の方だろう」

 

「どうしてわたしが……ああ、いえ、そういう人なんですね。なんだ、お互いにじりじり牽制し合って……バカみたい」

 

くすくすと、少女が自分の口に手を当てて笑った。

その、無理な力の抜けた自然体な少女の微笑みに、ユーガルドは安堵を覚える。どうやら、少女を怒らせてしまったわけではなかったようだ。

それに、こうして触れ合えるほど近くで目にした少女の姿は――、

 

「そなたは可憐だな」

 

「はえっ?なな、なんて?」

 

「――?そなたは可憐だと言った」

 

「恥ずかしげもなく二回言った!」

 

パッと袖から手を離し、飛びのいた少女が自分の顔を両手で挟む。その頬や耳が赤くなっているのを見て、ユーガルドはコロコロと表情の変わる娘だと思い、驚いた。

こんな風に、すぐ近くで誰かの喜怒哀楽を見つめるだなんて初めてのことだ。

 

必要に駆られて誰かと言葉を交わすときも、相手の顔にはユーガルドへの恐れか、茨の縛めの苦痛に耐える表情を見せられるばかり。

誰かの笑顔など、遠目にぼやけたものを見た以外に覚えがなかった。

そして、思った。

 

「星を数えよと、そなたは言ったな」

 

「う~、心臓に悪い……え?あ、はい、言いました。言ったと、思いますけど」

 

「そなた、名は?」

 

「しれっと話があちこち飛んじゃう人ですね!――アイリスですよ」

 

「アイリス」

 

わずかに赤い顔のまま名乗った少女――アイリス、その名前を舌の上で転がせる。

柔らかく、芯の通った名前であるとユーガルドには感じられた。

 

「ヴォラキアの西部で咲く橙色の花弁を付ける花の名だな。古い詩文の中にもたびたび散見されるものだが、そなたの髪色ともよく合うだろう。名付けをしたそなたの父母は、花々に深い見識を持ったものたちのようだ」

 

「曾祖母の名前をもらったって聞いてますけど……」

 

「ならば、そなたの曾祖母の父母は花々に深い見識が……」

 

「そんなに深い意味はないと思います!もう、なんなんですか!」

 

じれったいと言わんばかりの少女の反応に、ユーガルドは口を閉ざした。

まず、名前を褒めたいと感じた通りにしたのだが、ユーガルドの賛辞は見当外れだったようだ。だが、それがかえって幸いだったかもしれない。

何故なら、ユーガルドが続けたかったのは――、

 

「――星はそなただ、アイリス」

 

「……はえっ?」

 

「星を数えよと言ったであろう。そなたが、我が星だ」

 

星はそなたのことと、そう告げたい相手が花に由来した名前の主では紛らわしい。

星も花も、どちらもその美しさに貴賤はない。比べるような真似はしたくなかった。ましてやそこに、アイリス自身の笑みまで並べられてはなおさらだ。

星と花と笑顔と、順番など付けられようはずもなかった。

 

「――――」

 

ユーガルドの言葉に、アイリスは丸い目をもっと丸くしていた。

その眼差しを正面から受け止め、ユーガルドは微かに目尻を下げる。

 

――アイリスが、ユーガルドの茨の縛めに苦しまない理由はわからない。

 

わからないが、それを掘り下げ、状況が変わるのが恐ろしかった。これが茨の気紛れならば、ユーガルドが希望を抱いた途端にそれが失われてもおかしくない。

そんな、焼き上がったばかりのガラス細工のような儚さが、この瞬間にはある。

 

「――。変な人」

 

ささやかな沈黙を間に挟んで、ふとアイリスがそう呟き、微笑んだ。

思いがけずに見せた笑顔も可憐だったが、静けさの中に生まれたその微笑にも、木漏れ日のような温かみがあるように感じられた。

だから――、

 

「我が星よ」

 

「よ、呼ばれ慣れることのなさそうな呼び方……!なんです?」

 

「多くは望まぬ。ただ、またそなたと話したいと思っても構わぬか?」

 

「――。そんなこと、わざわざ断らなくてもいいですよ」

 

一歩、後ろに下がったアイリスが、その微笑の色合いをまた変化させた。

今度はどこか呆れを交えたように思われる微笑、その変化を重ねて快く思いながら、ユーガルドも「そうか」と短く応じ、頷いた。

 

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――古き物語は語る。

 

それは独りの王と、一人の少女の物語。

独りだった王が少女と出会い、独りではなくなった物語。

 

こうして、独りの王と一人の少女は、星空の下で互いを知った。

独りだった王は初めて他者の微笑みを、一人の少女は王の初めての喜びを。

 

誰をも茨で締め上げずにはいられないはずの『茨の王』は、ただ一人、その茨で苦しめずに済むアイリスと出会い、決して忘れられない一夜の逢瀬を交わした。

 

それが物語の始まりであり、ここから物語は瞬くように動き出していく。

 

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「……全然、全然こない」

 

草原にしゃがみ込み、膝に両手をついて頬杖をついたアイリスが呟く。

温かな日差しの中、ぬるい風が吹き抜ける街道は今日も誰も通らない。世はおしなべてこともなし、アイリスは故郷の何事もなく平穏な一日を満喫している。

それが、アイリスにはいたくご不満だった。

 

「またわたしと話したいとか言ってたくせに……」

 

頬杖をついてぼやくアイリス、その眉間の皺の原因は一人の青年だ。

村を襲った野盗が討伐され、宴の最中に丘の上で青年と出会ってから大体二十日――あれ以来、あの青年は一度もアイリスの村を訪れていない。

 

「そりゃあ、領主様はお忙しいのでしょうけど」

 

あの夜に話した相手の素性はあとから知った。しかし、青い顔をした村長や両親に教えられた今も、アイリスはそれが本当か信じ切れずにいる。

だって、アイリスは『茨の王』の噂を知っていた。

アイリスが暮らすエルカンティ領の領主であり、敵も味方も容赦なく痛めつける血も涙もない恐ろしい皇子と、それが『茨の王』の風聞だ。

 

「でも、気後れして宴にも混ざってこられないあの人の、どこが怖い領主様?」

 

実物と噂話と、どっちを信じるかなんて言うまでもない。

所詮、アイリスは無知で無学な片田舎の村娘だ。何かを決めたり信じたりするとき、自分の目よりも使える道具なんて持っていない。

そのアイリスの目が、『茨の王』が恐ろしいなんてとんでもないと言っている。

ある意味、怖いぐらい自分の発言に鈍感なところはあるみたいだったが。

 

「……我が星、なんて」

 

あんな綺麗な言葉で、あんな綺麗な表現で、自分を表されたのは初めてだった。

思い出すと頬が熱くなり、アイリスの顔がトメトみたいに赤くなる。もし、この赤面した顔を家族に見られれば、また熱を出したのかと大騒ぎになりかねない。

幸い、今ここにいるのは羊たちだけなので、いくらでも赤くなって大丈夫だった。

 

「べ、別に何かを期待してるとかじゃないですよ?あちらは領主様で、わたしはただの村娘なんですから。変なことなんて全然、全然……っ」

 

と、聞かれたわけでもないのに早口で言い訳するアイリスに叩かれ、草を食んでいた黒羊が迷惑そうに「メエ」と鳴いた。

その突き放した羊の態度に、アイリスは深くため息をつき、

 

「本当に全然、期待とかじゃないんです。ただ……あの人が寂しそうだったのは本当で、わたしとまた話したいと思ってくれていたのも本当だと、思ったんです」

 

寂しげな青い目をした彼が、アイリスとまた話したいと言ったのが思い出される。

あの言葉は嘘でも冗談でもなかったと思う。それに、もしもこれが世慣れていない村娘を勘違いさせる領主の手口なら、それでもいい。

彼が、あのきっと心優しい彼が寂しい思いをしていないというのなら、アイリスは誰も通ることのない街道を眺める日々を、嘆かずにいられる。

 

でも、もしも彼の寂しさが本物で、それでも何かが理由で街道を渡り、アイリスと言葉を交わすためにやってこられない理由があるのなら。

 

「……わたしは、いつでも待ってますよーだ」

 

どうせ暇で退屈な片田舎の村娘だ。代わり映えのない日々に、羊たちの散歩途中に街道を眺める日課が加わっても構わない。

だから今日も、アイリスは一人――否、羊たちと一緒に風を浴びながら待つ。

自分が星だなんて自惚れられないが、それでも、真昼でも見える瞬きがあるとしたら、彼がこの場所を見失わずに済むための道しるべとして、ここで。

 

「……むぅ、まだわたしは疲れてませんよ?」

 

ぐいぐいと、群がる羊たちに肩や背中を押され、アイリスは唇を尖らせる。

生意気にも付き合いの長い羊たちは、アイリスの体力のなさを熟知している。思いやりというより、途中でへばられたくないという事情もありそうだが、いくら何でも羊たちの過保護だとアイリスは抗議した。

しかし――、

 

「――?どうしたんです?」

 

羊たちの訴えに違和感を覚え、アイリスは眉を顰めた。

十数頭の黒羊たちは、その黒い羊毛に包まれた体をアイリスに押し付け、食んでいた草原から意識を逸らすと、視線を揃って彼方へ向けている。

それは、アイリスが待ち人の顔が見えるのを待ち焦がれた街道――しかし、やってくるのは立派な疾風馬に跨った、綺麗な顔をした仏頂面の青年ではなく。

 

「……うそ」

 

猛々しく、野卑な風格を纏った荒くれ者共が、治りかけの傷を抱えた村へ向かって、その獰猛な暴力性を発揮するために近付いてくる姿だった。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――ユーガルド・エルカンティは深刻な悩みを抱えていた。

 

思い返すこと二十二日と半日前、領内の村を襲った野盗を退治した夜、丘の上で一人の少女――アイリスと、言葉を交わした時間を忘れられずにいる。

ユーガルドの二十年の人生で、家人や使用人以外のものとあれほど多く言葉を交わせたのは初めてのことだ。相手が一度も、苦痛に顔を歪めなかったことも。

その初めての体験は思いの外、ユーガルドの心を浮足立たせているらしい。

 

「なんと軟弱なことか」

 

額に手をやり、ユーガルドは自分の心の脆さをそう嘆く。

目をつむれば瞼の裏にはアイリスの微笑が、静けさの中にはアイリスの声が、胸の奥ではアイリスと共に過ごしたときの鼓動が、それぞれ感じられてしまう。

それを軟弱とそしりながら、嫌とは思わない自分がまた救い難い。

 

そもそも、ユーガルドはすでに自分の人生の終え方を決めていたはずだ。

皇位継承権を持つユーガルドだが、次代の皇帝争いである『選帝の儀』には参加せず、帝位を辞退するつもりでいる。――それが何を意味するか、わかっての上で。

 

「生まれついて、私のような不具合を抱えたものが皇帝など望むべきではない」

 

『茨の王』と恐れられながら、ユーガルドがエルカンティ家の当主を務められているのは周囲の支えあってのことだが、ヴォラキア皇帝にそんな惰弱は許されない。

臣下の力はあくまで支えであって、揺るがぬ力は皇帝自身になくてはならないのだ。

 

そのような才覚や資格は自分にはない。

『茨の王』として、自分でも理由なく他者を縛める皇帝などいてはならないのだと。

 

「――――」

 

自分のような、望まれぬ宿業を背負ったものには相応しい生き方がある。

これほど大きな欠点を抱え、それでもユーガルドが生きてこられたのは、皇族の一人として生まれつき、周囲の助けを借りられる恵まれた立場にあったからだ。

その恵まれた土壌は、領地で暮らす多くの領民に支えられて成立している。

 

ユーガルド・エルカンティは次の皇帝にはなれない。

ならばせめて、自分が生きていられる間、生かされた恩返しをしなくては。

 

「アイリス」

 

今一度、たった一度会っただけの少女の名を口にし、ユーガルドは瞑目する。

驚いた顔、笑った顔、怒った顔、そしてまた微笑んだ顔と、短い間に血の繋がった実母以上の表情の数を見せてくれたアイリス――彼女と会えて、本当によかった。

それはただ、茨の痛みを味わわせずに話せた相手だからではない。それに加えて、彼女はユーガルドに自分の守るべき領民の顔を、初めてちゃんと意識させてくれた。

 

アイリスと出会えなければ、ユーガルドは長くないと定めた生涯、自分のしていることが誰のためであるのか、相手の顔も知らずに続けなければならないところだった。

その上、心の広いアイリスはユーガルドの不躾な頼みも快く受け入れてくれたのだ。

 

「またそなたと話したいと、そう私が思うことを許してくれるとは」

 

村を訪ねる理由がないので、実際にアイリスと言葉を交わせるわけではない。

だが、こうして屋敷でふとしたときに、また彼女と話したいと思うことは許された。それでいい。それ以上のことは望まないと、そうユーガルドは目尻を下げる。

そうしてふと、思う。――それ以上とは、なんだろうか。

 

もしも望めるとしたら、ユーガルドはアイリスに何を――。

 

「――む」

 

不意に聞こえた笛の音のような風切り音に、ユーガルドは顔を上げた。

空高く響き渡る笛の音は、本邸からユーガルドの屋敷へ放たれた鏑矢の音色だ。

直接、顔を合わせて話せないユーガルドとのやり取りに最善と、エルカンティ家では矢文による意思疎通が採用されており、鏑矢の音色で緊急性を選り分けている。

 

急ぎ足に屋敷を出れば、外に用意された木の板材に突き立つ矢文が見えた。

聞こえた音色の緊急性は最大のもの、そこに奇妙な焦燥感を覚え、ユーガルドは矢から文を外して内容に目を通し――息を呑んだ。

 

「――アイリス」

 

思わず漏れた呟きには、それまでの柔らかな感情を交えた響きではなく、強い焦燥と自責の念が込められていた。

 

茨は、アイリスの心の臓を蝕まなかった。

それでも『茨の王』のおぞましい宿業は、別の形でアイリスへ災いをもたらした。

このときのユーガルドには、そう思えてならなかったのだ。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――『帝国人は精強たれ』。

 

ヴォラキア帝国の全土に広く染み込んだ鉄血の掟を、ヴォルカスは心底忌々しいものと嫌っていた。

 

狼人であるヴォルカスにとって、群れとは何よりも優先すべき共同体だ。

群れで生き、群れに生かされる誇りある狼人のヴォルカスからすれば、弱者を切り捨てることを良しとした鉄血の掟も、それを奉じる帝国人も唾棄すべき敵だった。

あんなのは所詮、自分が弱者だなんて考えもしない連中が賢しげにくっちゃべったものがそれらしく残っているだけだ。それを為政者だとか金持ちだとかといった連中が、もっと悪賢く生きるために利用しているに過ぎない。

 

自分は違う。自分たちはそうはならない。

負けたものを、殺されたものを敗者だ弱者だと声高に罵り、自分たちの中からも居場所をなくすようなことなんて絶対にしない。

だから――、

 

「やられた分!殺された分!奪われた分!全部全部、やり返して殺し返して奪い返してやらねえと終わりにならねえんだよ!」

 

そう雄々しく、黒い獣毛に全身を覆われた巨躯の狼人、ヴォルカスは吠え猛る。

群れが拠点にした洞窟はかなり大きなものだが、それでもヴォルカスは天井に頭を擦りそうになる長身だ。筋骨隆々の体躯の上、長い前髪が金色の双眸の片方を隠している。

巨体に見合った大口からは刃のような牙が何本も伸び、丸太のような腕の先にある獣爪と合わせ、全身凶器というべき凶暴な存在。

それが自他共に認める、ヴォルカスという群れの長の在り方だ。

 

「――――」

 

そのヴォルカスの吠え声に、檻の中で戦利品の女たちが身を寄せ合う。

群れの報復に遭った村の生き残りたちだ。この女たち以外の村人は、勇敢にも立ち向かうか家族を逃がそうとするかして、ヴォルカスたちに引き裂かれる末路を向けた。

その命の残滓である血と肉が、ヴォルカスの爪や牙には色濃く残っている。

それ故に、生き残った女子供はヴォルカスを恐れ、目を背けている。

だが――、

 

「……それが、わたしたちの村を襲った理由ですか?」

 

檻に囚われ、怯えて抱き合う娘たちの中で、その女だけは態度が違った。

鉄格子の奥、毅然とヴォルカスを見据えるのは亜麻色の髪を一つにまとめた娘だ。彼女はすすり泣く同じ境遇の娘たちを背後に、一人だけ二本の足で立っている。

その声と眼差しに、ヴォルカスは苛立ちを覚えて大口を開き、

 

「そうだ!それがテメエらがオレたちにやり返された理由だ!」

 

「……それで、わたしのお父さんとお母さんも殺したんですか?」

 

「そうだって言ってんだろうが!話のわからねえオンナだなぁ!」

 

怒号が洞窟の中に響き渡り、抱き合う娘たちのすすり泣きが強くなる。しかし、真正面からヴォルカスの怒りを浴びせられる少女の態度は、どうしても崩せない。

 

おかしな話だった。娘にとって、ヴォルカスは手も足も出ない巨獣のはずだ。

力でも武器でも、娘はヴォルカスには敵わない。しかも、娘もわかっている通り、ヴォルカスは娘の父と母の仇でもあった。

憎き仇が太刀打ちできない力の持ち主だったとき、人は絶望するのではないのか。

 

「チッ」

 

長い舌で舌打ちして、ヴォルカスは檻の中の娘から顔を背ける。

元々、ヴォルカスたちが村を襲ったのは報復が理由だ。数週間前、ヴォルカスたちの群れの一部がこの娘たちの村を襲い、領主の兵に皆殺しにされたことの報復。

もちろん、襲われた村人や領主が自衛するのは当然のことだ。当然のことだが、ヴォルカスたちも群れの仲間を殺され、泣き寝入りするなんてできない。

 

だから、報復を果たした。

このあとは、おそらく仲間たちを殺した領主の兵がやってくる。殺された村のニンゲンたちの報復のため、ヴォルカスたちを根絶やしにしようとするはずだ。

 

「それに勝つ。勝って、滅ぼして、それでしまいだ……!」

 

磨き上げられた刃のような獣爪をすり合わせ、ヴォルカスは闘争心を燃やす。

領主の兵がどれほど屈強だろうと、自分たちの群れは、ヴォルカスはそれを上回る。

その力で、敵の首魁の首をもぎ取ることさえできれば――、

 

「……今すぐここを離れれば、戦うことなんてないんじゃないですか?」

 

「テメエ!まだ余計な口を……」

 

「あなたは強いのかもしれません。でも、他の人たちもそうなんですか?誰も……誰も死なないで兵隊さんたちに……あの人に、勝てると思うんですか?」

 

牢の中の娘、その口の減らない態度にヴォルカスは牙を軋らせた。

娘の言う『あの人』が誰かは知らないが、ここで領兵を迎え撃たずに逃げる案んて選択肢はありえない。たとえ逃げようと、逃げ切れることなんてない。

 

「逃げても追われんだよ!どこまでもどこまでも……追いかけっこになったら、それこそオレたちは逃げ切れねえ。ここでテメエらって餌に食いつかせんのが一番いい。追ってきやがる奴らを全殺しする。それだけが、戦いを終わらせる方法だ!」

 

先に仕掛けた群れの仲間が殺された。ヴォルカスたちはその報復をした。領主の兵がその報復にヴォルカスたちを殺そうとする。――戦いなんて、その繰り返した。

それを終わらせたいなら、どちらか一方が完全に息絶えるしかない。

 

「……本当に?」

 

「あ?」

 

「本当に、戦うのを終わらせる方法って、それしかないんですか?」

 

冷たい水を浴びせるみたいに、娘の問いが投げかけられる。

他に、戦いを終わらせる方法はないのかと、檻に閉じ込められ、自分で自分を助けることもできない娘が、勝手なことを。

 

「あるものかよ!そんなもんはどこにもねえ!そんなもんがあれば誰も――」

 

滅ぼし合うまで牙を突き立て合う真似をするものか。

自分たちの群れを守るためには、敵対するものを打ち倒し、証明するしかない。自分たちと戦っても勝てないのだと、強さを。

 

――結局、それはヴォラキアの鉄血の掟に従うのと同じこととわかっていても。

 

「――ッ」

 

その考えに歯を軋らせたところで、不意にヴォルカスは顔を上げた。

鼻をひくつかせ、振り返る。そのヴォルカスの反応に、檻の中の娘が眉を顰めた。

 

「どうしたんで……」

 

「――きやがった」

 

「――――」

 

狼人の鋭敏な嗅覚が、風の匂いに紛れた色濃い『怒り』を嗅ぎ取る。

それが戦場へ臨むものの発する戦化粧だと、ヴォルカスも数々の狩りで知っている。襲った村の男たちも、自分の妻や子を守るために同じ匂いを発していた。

ただ一つ、おかしなことがあるとすれば、それは――、

 

「――こいつは、なんだって一人できてやがるんだ?」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「私一人の方が味方に無用な犠牲を出さずに済む」

 

被害に遭った村の周辺を捜索し、野盗の拠点たる洞窟を見つけた兵たちに待機を命じ、ユーガルドは一人、冷たい空気の張り詰めた洞窟に足を踏み入れた。

無論、ユーガルドの意見に反対した領兵もいたが、冒頭のように『茨の王』に断言され、それ以上食い下がれるものは一人もいなかった。

 

「――――」

 

ユーガルドが片手に下げる宝剣は、エルカンティ家が何代も前の皇帝から賜った由緒正しき代物で、ユーガルドの代までほとんど装飾品扱いされていたものだ。

『茨の王』たる体質が理由で護衛を持てなかったユーガルドは、自分の身を守るために一通りの剣技を修めているため、この宝剣を壁の花にしておく必要がない。

もっとも、幸いというべきか生憎というべきか、磨かれた剣技が実戦で役立てられたことはこれまで一度もなかった。

何故なら――、

 

「――ぁ、く、う」

「ぎ、い、いいい……ッ」

「く、く、ぐ」

 

ユーガルドが剣を振るうまでもなく、ほとんどの敵は茨の搦め捕られ、戦うどころか立ち上がることさえできずに倒れることになるからだ。

 

初めてユーガルドが人を殺めたのは、離れの屋敷で暮らすユーガルドへ差し向けられた刺客が茨の縛めに倒れ、介錯を求められた八歳のときだった。

以来、幾度も同じような機会に立ち会い、ユーガルドは介錯に剣を振るってきた。

戦いになどならない。それが誰であれ、ユーガルドの前では――、

 

「――冗談じゃ、ねえ」

 

最奥、洞窟の細長い通路を抜けた先に、ひと際大きな空間があった。

松明の火でぼんやりと照らされた空間には、いくつもの鉄の檻と、冷たい鉄格子に囚われた人影。それらを背後にした、大きな敵意が待ち受けていた。

――そう、待ち受けていた。

苦しみ悶え、泣き叫ぶのではなく、ユーガルドを待っていたのだ。

 

「オレは……ッ、オレたちは、戦いにきたんだ……!こんな、こんなふざけたヤツに、ふざけたやり方に、オレが負けられるか……ッ!」

 

掻き毟るように、胸の獣毛を掴んで吠えたのは黒い体毛の狼人だ。

犬人と似ているが、平均的に小柄な犬人と比べて狼人は体格に恵まれるものが多い。とはいえ、その中でもこの狼人はとびきり大柄だった。

太い腕に鋭い獣爪、涎をこぼす大口からねじくれた牙を生やした巨体は、ユーガルドが檻の中の少女を肩車してもまだ上背で負けるだろう。

 

などと、どうにも間の抜けた想像をしてしまったのは、その狼人の向こう、牢の中にユーガルドの求めた顔があるのを見つけてしまったからかもしれない。

 

「領主、様……」

 

薄い唇を震わせ、そうユーガルドを呼んだのは檻に入れられたアイリスだ。

立ち尽くしていた彼女は鉄格子を掴み、ユーガルドを見つめる。その眼にあったのは助けを求める懇願や、ユーガルドがこの場に現れたことへの驚きではなかった。

むしろ、あったのは納得と、堪え難くある諦念で。

 

「どこを見て!やがんだよぉ!!」

 

アイリスの瞳の色、それをどう表現すべきか思案していたユーガルドを、狼人のけたたましい咆哮が現実に引き戻した。

見れば、荒い息をつく狼人の胸元が大量の血で濡れている。――自ら獣爪で、茨に絡みつかれた胸を引き裂いたのだ。

 

「そのようなことをしたところで、茨の縛めからは逃れられぬ」

 

「みてえだなぁ……だが!痛ぇのは痛ぇので掻き消せる!テメエの痛ぇよりオレの痛ぇの方が上だ!どうだ、ニンゲン野郎!」

 

「なるほど、痛みを痛みで掻き消すか。……私にはできぬが、覚えておこう」

 

「気取ってんじゃ……ねえぞぉ!」

 

金色の瞳を見開き、大量に流れ出る血に構わず狼人が冷たい地面を蹴った。

瞬間、あれほどの巨体が視界から消え、巨大な黒い風が洞窟を吹き荒れる。茨の縛めで全力を出せない体とは思えない動きに、ユーガルドは宝剣を構え直し――、

 

「気取るなどととんでもない話だ。そなた相手に、そのような余裕はない」

 

叩き付けられる獣爪を打ち払い、ユーガルドは狼人の力量を正しく評価する。

同時、これまで一度として他者と比べる機会のなかった剣技――それが遺憾なく発揮され、猛然と跳ね回る敵を相手に容赦なく剣閃が空を躍った。

 

「ぐ、おおぉぉぉッ!」

 

大木のような腕、刀剣の如く鋭い獣爪、黒い風と見紛う速力。

いずれも只人では到達し得ない実力を発揮しながら、狼人は四方八方からユーガルドの命を引き裂く猛攻を続ける。どの攻撃も、浴びれば一合で血の塊にされるだろう。

膂力ではあまりに分が悪い。身体能力の差は技で補うよりなかった。

 

「――し」

 

両足を開いて立ち、ユーガルドは竜巻のように絶え間なく迫る獣爪を、宝剣の耐久力に任せて受け、流し、捌いて、耐える。

宝剣と獣爪が打ち合うたび、鋼同士が奏でる快音と火花が散り、薄暗い洞窟の中にユーガルドと狼人の顔が交互に浮かんでは消えるのを繰り返す。

 

それはユーガルドにとって、初めて他者と武技を比べ合う十数秒だった。

だがそれも、終わりがくる。

 

「テ、メエ、なんで……」

 

「なんだ。申してみよ」

 

「なんで、やり返して、こねえ……ッ」

 

大きく振りかぶった一撃、渾身の力を込めたそれを受け止められ、剣と獣爪の鍔迫り合いになりながら、血を吐くような声色で狼人が問う。

文字通り、血を流しながら全力を振り絞った狼人は、一撃の返礼もない戦いを侮られたと感じ、屈辱を噛みしめる表情を浮かべていた。

しかし――、

 

「そなたを侮辱したのではない。むしろ、その逆だ」

 

「逆、だと……?」

 

「そなたは強い。下策に出れば万一があろう。そしてその万一を起こさせるわけにはゆかぬ。私の身は私だけのものではなく、この場には救わねばならぬものもいる」

 

そう答えながら顎をしゃくり、ユーガルドは狼人の背後の牢を示した。

そこには囚われのアイリスと、彼女と同じ境遇の娘たち――茨の縛めの影響下にないアイリスと違い、娘たちは茨の縛められ、苦痛に喘いでいた。

その苦痛を長引かせたくない。だが、勝利を急いで取りこぼすこともできない。

 

「故に確実な手段を優先した。『茨の王』の行いが酷薄であると訴えるならばそうするがよい。否定しようとは思わぬ。だが――」

 

「ぬ、おッ」

 

「出血と茨の縛め、楔は深くそなたを穿っている。もう立つこともできまい」

 

言いながら、宝剣を傾けて体を入れ替え、ユーガルドは狼人を地面に引き倒した。

どう、と逆らえずに倒された狼人はとっさに体を起こそうとしたが、強靭な狼人だろうと命の危うい出血量と、消耗だ。立ち上がれない。

 

「そなたが首魁だな」

 

仰向けに倒れた狼人が、ユーガルドを憎々しげに睨む。

ここまでの道のり、一味の他のものも見かけたが、いずれもこの狼人ほどの力も、意思の強さも感じられなかった。最も強いものが集団の長というのは短絡的だが、このヴォラキアでは珍しくもない在り方だ。

事実、狼人もそれを否定はしなかった。

 

「領主様……」

 

「待つがいい、我が星。まずは速やかにこのものの首を落とさねばならぬ」

 

己の敗北を理解しながらも、狼人の瞳から闘争心は欠片も損なわれていない。一味の首魁であり、敵意にも陰りがないとなれば、即座の処断が必要だ。

 

「――わかってます。わかってるから、それを待ってほしいんです」

 

そう結論付けたユーガルドを、檻の中のアイリスの声が引き止めた。

その声の懸命さにユーガルドが眉を寄せると、アイリスは檻の鉄格子を指差して、

 

「ここを開けてください。鍵なら牢番の人が……」

 

「わかった」

 

首肯、次いで二度振るわれた宝剣が鉄格子を滑らかに斬り、彼女の要求に答える。

即座に願いを叶えられ、アイリスは「あ、ありがとうございます」と目を丸くしながら礼を言い、斬り倒された鉄格子を跨いで檻の外に出た。

そして真っ直ぐに、彼女は倒れている狼人の下へ向かっていく。

 

「もはや動く力は残されていまいが、不用意に近付くものではないぞ」

 

「ごめんなさい。でも、顔を見ながら話さなくちゃいけませんから」

 

ユーガルドの忠告にそう応じ、アイリスが狼人の傍らに立ち、しゃがみ込んだ。

彼女と狼人との視線が間近で交錯し、狼人は口の端を悔しげに歪めた。

 

「ざまあみろって、言いにきたか……?結局、テメエらの勝ちだ」

 

「――――」

 

「けどな、迂闊じゃねえのか?こんな様でも、テメエを引き裂くぐらいわけねえ……いや、頭を丸かじりにしてやろうか?そのぐらい、今のオレでも……」

 

虚勢以外の何物でもないと、自他共に見透かせる悪罵を狼人が口にする。

それは目の前のアイリス以上に、自分自身の矜持をズタズタに引き裂く行いだ。その痛ましさは目に余ると、ユーガルドが一声発そうとしたときだった。

 

「――あなたを、許します」

 

「……は?」

 

アイリスの唇が動き、桜色のそれから紡がれた言葉に狼人が瞠目する。――否、狼人だけではない。傍らで聞いていたユーガルドも、目を見張った。

それの意味するところが、ユーガルドにも狼人にも理解できなくて。

だが、そんな男たちの動揺を余所に、アイリスは続ける。

 

「わたしは、あなたを許します。あなたがわたしの村を襲って、わたしのお父さんとお母さんを、友人を殺したことを、許します。許す、努力をします」

 

「何を……何を言ってやがる!テメエ、何のつもりで、そんな……ッ」

 

「わたしだって!」

 

「――ッ」

 

「わたしだって、血を吐く思いです。……どうしてあなたを許さなくちゃいけないのか、今言ったばかりのことを後悔してます。それでも、それでも」

 

理解できないと声を荒らげた狼人、その声をアイリスの悲痛な訴えが塗り潰した。彼女はその大きな瞳に涙を浮かべ、ぎゅっと強く手を握りながら続ける。

その、家族や友人の仇である狼人に、許しを与えると言ったわけを。

それは――、

 

「――それでも、これが戦うのを終わらせる方法です」

 

「――ぁ」

 

「されたことをやり返して、やり返されて、またやり返して……その繰り返しが嫌で、やり返されないように相手をいなくならせる。あなたは、それ以外の方法はないって言いました。でも、あります。方法は、あるんです」

 

「――――」

 

目に涙を浮かべ、頬に力を込めながら、アイリスは狼人にそう告げる。

それがどれだけの苦悩の末に絞り出された言葉なのか、人に痛みを強いるばかりで、自分自身では痛みを理解できないユーガルドには想像もつかない。

ただそれが、ユーガルドがこの場に辿り着く前に、アイリスと狼人との間で交わされたやり取りの答えだったのだろうと、そう思った。

 

「……領主野郎」

 

「――。それはまさか私のことか?」

 

アイリスの言葉にしばらく黙ったあと、そう言った狼人にユーガルドは眉を寄せる。

全く耳に馴染まない呼ばれ方だが、この場に他に該当しそうなものがいない。消去法で自分のことだと判断したユーガルドに、狼人は長く大きな息を吐くと、

 

「……投降する。オレ以外、誰も殺してくれるんじゃねえ」

 

大きな葛藤の果てに、あらゆる感情を煮込んで紡がれた答えにユーガルドは驚く。

狼人の眼には消えない敵意と怒りがあった。だが、絶えず燃え続けていた闘争心の光は理性に押し込められ、留めようとしている。

 

「あの、できたら、この人のことも死なせないでほしい……です」

 

押し黙ったユーガルドを見上げ、アイリスが狼人の傍らでそう懇願してくる。

当然だが、それは容易いことではない。起こった出来事を収める手段として、首魁の首を刎ねるのは最も道理に適った決着だからだ。

しかし――、

 

「あ、あなたの星からの、お願いなので……!」

 

説得材料を探し、そう口にしたアイリス。

彼女はそう言ってしまってから、自分が口にした内容を恥じるように俯いた。だが、恥じる必要はないと、そうユーガルドは彼女の姿勢に感心した。

 

「持てる手を尽くすことを最善と私は考える。その点、我が星の判断は正しい。……これが情に訴えかけられるということか。これまで、私は物事の判断で不確定要素に悩まされたことはなかったが、存外、難しいものだな」

 

「それって……!」

 

「そなたの一言は私には重いということだ。――だが、良いのか?」

 

顔を上げたアイリスが、ユーガルドの問いに「え」と息を漏らす。

 

「そなたの父母や同郷の仇だ。そなたには敵討ちをする権利がある。その正当性を手放し、このものを生かそうとして悔やむことはないか?」

 

「……明日のことは、わたしにはわかりません。わたしは学がなくて、頭も悪い娘ですから。でもこれが、今後悔しないための方法だと、思います」

 

「――そうか。ならばよい」

 

自分の心の問題であれば、どんなものでも自由にできる。

そんなおためごかしを口にせず、正直だったアイリスの答えにユーガルドは頷いた。

代わりに、ユーガルドはアイリスに手を差し伸べる。彼女はその差し出された手と、ユーガルドの顔を交互に見てから、おずおずとその手を取った。

 

「……痛まぬか?」

 

「え?あ、はい、大丈夫です。怪我はさせられてないです、たぶん」

 

「――。そうか。ならばよい」

 

目をぱちくりとさせ、不思議そうな顔をしたアイリスにそう答え、それからユーガルドは倒れたままの狼人の方を見やり、

 

「我が星……アイリスに感謝せよ。私だけならば、そなたも、そなたの同胞も首を落とさず決することなどありえなかった」

 

「……テメエ、今からでもそうするか?それがあれだ、帝国じゃ自然だ」

 

「そうだな、帝国的だ。だが、私はエルカンティのものだ」

 

帝国らしい武勲ではなく、別の才覚で名を立てた家柄は疎まれることも多い。

それで普段は不利益を被ることがあるのだから、時には帝国らしからぬ決着のため、この家の在り方が貫かれることがあっても文句を言われる筋合いはない。

そのユーガルドの答えが意外だったのか、狼人が虚を突かれたような顔をする。そうして毒気の抜けた顔を見ると、なるほど愛嬌を感じなくもない。

 

「ぐがっ!い、痛ぇ!痛みが増した!テメエ、何のつもりだ……!」

 

「すまぬな。原理はわからぬ。止めようもないゆえ、すぐに離れるとしよう。あとのことは我が兵らに任せるが……そうだ」

 

「な、んだ……ッ」

 

「そなた、名は?」

 

問いかけに、痛みで顔をしかめていた狼人が強く牙を噛み鳴らす。その勢いのまま、狼人は噛みしめすぎて軋る音の聞こえる牙を見せながら、

 

「ヴォルカスだ。覚えておけ、領主野郎……ッ」

 

そう、馴れ合えそうもない形相で猛々しく、弱った素振りなど見せずに吠えたのだった。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「わたし、昔、大きな病気をしたことがあるんです。ものすごい熱が出て、何日も何日も寝込んで、もう助からないだろうって村のみんなで話してたって」

 

立ち上る煙を眺めながら、ユーガルドの手を握ったアイリスがそう話す。

空へ高く伸びる煙の根元では、今回の襲撃で命を落とした村人たちの亡骸が火葬されている。死体を放置すれば病気が蔓延し、埋めれば野犬や魔獣が掘り返す。

ああして炎で弔い、灰を大地に撒くのがヴォラキア帝国での一般的な送り方だ。

その煙を立ち上らせる一因には、アイリスの父母も含まれている。

 

「助かったのは奇跡だって、目を覚ましたあとで癒者さんに言われました。生きたい気持ちが強かったとか、生きてやらなきゃいけないことがあったんだとか、色々」

 

「生きてやらなければならないこと、か」

 

「はい。……それって、今回もそうなんでしょうか」

 

「……我が星」

 

ぎゅっと、ユーガルドの手を握るアイリスの力が強くなる。

ユーガルドは痛みを感じない。村娘に過ぎないアイリスに多少強く手を握られても、何ほどもない。そのはずなのに、胸がつかえる感覚があった。

滅多に感じない息苦しさ、それがユーガルドの胸にしこりのように生まれたのだ。

 

「お父さんもお母さんも、村長もティグレおばさんもジムナさんも死んじゃったのに、わたしがこうやって生き残っているのは、生きなくちゃいけない理由があるから?だとしたら、みんなは死んでいいから死んでしまったんですか?」

 

「――――」

 

「ごめんなさい。そんなはずないですし、めちゃくちゃなこと言ってる自覚、あります。こんなこと、あなたに言っても困らせるだけだって」

 

目を伏せて、アイリスが自分の発言を心から恥じる。

しかし、真に恥じ入るべきは自分だと、ユーガルドは言葉を欲しがっているアイリスに望んだ言葉を返せない自分を呪っていた。

 

アイリスを思いやり、その心に寄り添った言葉をかけるべきだと理屈はわかる。

だが、悲しいかな、ユーガルドは他人の心を慮るのが苦手だ。さらに言えば、ユーガルドはアイリスのように、家族を失う悲劇も味わったことがない。

皇帝である父は健在で、母も離れて暮らしているが存命だ。顔見知りの臣下たちも、目立った悲劇に見舞われたものはおらず、人生経験不足が痛手となる。

だから、不甲斐ない身でユーガルドが言えることがあるとすれば――、

 

「――私は、そなたが生きていてくれて安堵した」

 

「――。領主様?」

 

「恥知らずであることを自白しよう。私はそなたの村が襲われたと知ったとき、領民を分け隔てなく扱うべき立場にも拘らず、そなたの生存を第一に願った」

 

「――――」

 

「それ故に、そなたを洞窟で見つけたときにはひどく安堵した。あるいはそこで腑抜けたせいで、ヴォルカスめに敗れていたやもしれん。あのものは強敵だったゆえな」

 

頭に浮かんだ言葉、それを整理しないまま発するのにユーガルドは不慣れだ。

それでも、言わなければならないという焦燥感に押され、ユーガルドは正直に話した。話したあとで、父母を失ったアイリスへの配慮に欠けすぎたと自省する。

しかし、他の言い方がわからなかった。

 

「……どうして、ですか?」

 

その負い目があったから、アイリスにそう問い返されたのも当然だと受け止めた。間違ったことを言い、正しくない対応だったと罵られることを。

そう覚悟して隣を見て――アイリスの瞳に浮かんだ感情に、また混乱する。

アイリスの瞳に宿っていたのは、ユーガルドを責める色ではなかった。

 

「どうして、なんですか?領主様は、なんでわたしを?」

 

重ねられる同じ問いかけは、しかしユーガルドの中では違う響き方をした。

アイリスの言葉には責める響きはなかった。かといって、本当に何一つわからないものの当てもない尋ね方とも思えなかった。

おそらく、この問いには正解があるのだ。

それをアイリスはわかっていて、ユーガルドはそれを探り当てなくてはならない。

 

「――。今、考えている」

 

「……自分のことなのに、わからないんですか?」

 

無言の眼差しに見切りを付けられるのを恐れ、そう告げたユーガルドをアイリスがそう追い詰めてくる。だが、それにユーガルドは首を横に振った。

自分の感情がわからないわけではない。わからないのは、その伝え方だ。

 

「どうすれば、そなたに私の考えが十全に伝わるか考えている」

 

「領主様の、考え……」

 

「そうだ」

 

一片も余すところなく、自分の抱いている感覚をアイリスに伝えたい。

それができなければ不十分だし、それができても不十分にさえ思える。アイリスと会えない間も、アイリスと会えてからも、湧き水の如く願いは湧いてくるのだ。

 

「そなたに安らいでもらいたい。そなたが危難に晒されるのを防ぎたい。そなたに美味なるものを口にし、柔らかな床についてもらいたい。そなたが木漏れ日のような温かなものにくるまれる日々を過ごしてもらいたい。――そなたに幸福であってほしい」

 

指折り、アイリスに降り注げばいい幸いが浮かぶのに合わせ、ユーガルドは自分が彼女にどうなってほしいのかようやく辿り着く。

アイリスに、幸せであってほしいのだ。

彼女の頭上に降り注ぐだろう悲しみを、全て取り払える傘を作ってやりたい。

そして、未来永劫、アイリスの幸福を守るためには――、

 

「――そうか」

 

アイリスの心からの平穏と幸福を願い、ユーガルドは気付いた。

自分が彼女のためにできる、他人任せでも運任せでもない、一番の方法に。

 

「わかった、我が星。私が……余が、次のヴォラキア皇帝となろう」

 

「――。え!?」

 

大いなる決断、それを下したユーガルドの言葉に、それまで潤んだ瞳でこちらの言葉を待っていたアイリスが目を見開き、声をひっくり返させた。

その反応と驚きの声を聞いて、ユーガルドは頷く。

 

「そなたは驚く顔と声も可憐だな」

 

「ひえっ、何の躊躇いもなく……じゃなくて!ど、どうしてそんな結論に!?」

 

「合理的な結論だ。余がそなたの未来に望む全ては、余ではない誰かの恩情や気紛れに期待して叶うものではなく、余が自ら望まなくてはならぬものであると」

 

「こ、皇位継承者の自覚が早い!もう一人称が板についてる……!」

 

目を白黒させるアイリス、握り合った彼女の手を壊さないよう握り返し、ユーガルドは「我が星」と彼女をじっと見つめ、呼びかける。

途端、アイリスはドギマギとしながら、赤い顔で俯いた。

 

「俯くな。よく、そなたの顔を見せよ」

 

「うぁう……」

 

顎に指を添えて顔を上げさせ、その赤い顔と潤んだ瞳と真っ向から見つめ合う。

 

「わ、わたし、両親と故郷の人たちを大勢亡くしたばっかりなんですよ……」

 

「わかっている。そなたの心を慰めたい。故に、皇帝になる」

 

「どうして!?」

 

「それが最も長く、そなたの傍にいられる方法だからだ」

 

声を高くしたアイリスが、ユーガルドの澱みのない受け答えにたじろぐ。

直前までの、何を告げればいいのかと苦心したのが嘘だったように、ユーガルドの中で迷いは晴れ、やるべきことは明瞭となっていた。

 

常日頃、『茨の王』である自分が帝位を望んでも、ヴォラキア帝国全体のためにならないと割り切っていたが――矢文と同じだ。

何がしかの方法を見つけ出してでも、その地位を望もう。

故に――、

 

「今は存分に泣くがいい。いまだ皇帝ではない余の身でできることなど、そなたから離れずに傍にい続けることぐらいのものだが」

 

「……それで、正解じゃないですか」

 

差し出がましいかと思った提案を、しかしアイリスは拒まなかった。

握った手でユーガルドに引き寄せられ、アイリスはその胸の中にすっぽりと収まる。誰かの温もりを、こうして抱きとめる日がくるなど考えたこともなかった。

だが、その幸いを噛みしめるのは、今このときではない。

 

「う、く……っ」

 

喉を震わせ、アイリスの唇から嗚咽が漏れ出した。

彼女の潤んだ瞳からポロポロと宝石のように涙がこぼれ、歪んだ視界にはなおも上り続ける煙が映り込む。――彼女の、日常を形作る多くが消えていく、煙が。

 

「お父さん……っ、お母さん……っ」

 

大切な人がいなくなったことを受け止め、それをしたものへの報復の手を止め、懸命に自分の信条を貫こうとするアイリス。

その細い肩を抱き、たどたどしく背中を撫でながら、ユーガルドは思う。

 

――ユーガルド・エルカンティが帝位を得るため、必要なものを全て得なくてはと。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「へえ、『茨の王』がやる気になったんだ?じゃあ、次の皇帝は決まりかな?」

 

豪奢な調度品が飾られた一室、椅子に腰掛け、酒杯を傾けていた男は舞い込んできた報告を聞いて、思いがけない展開に眉を上げていた。

『茨の王』と呼ばれる第十九皇子の方針転換――彼もまた帝位を目指すなら、次代の皇帝争いは大きく状況を掻き乱され、波乱の幕開けとなるだろう。

 

長年の不摂生が祟り、現皇帝であるラドカイン・ヴォラキアの治世は終わりが近い。

欲望に忠実なラドカインは食にも酒にも女にも大いに皇帝特権を使い、『選帝の儀』の参加資格を持つ子らは二百人を超える帝国史有数の『種蒔き帝』だ。

とはいえ、資格者の半分近くは十に満たない幼子も多く、それらは悲しいかな、『選帝の儀』を勝ち抜く候補としても名が上がらないだろう。

 

年功序列がどこまで説得力があるかは怪しいものだが、それでも帝位を得るために長く準備ができたものの方が可能性は高い。

それが現時点で六十代まで続いてきた、ヴォラキア皇族の在り方だ。

そして、そんな皇族同士の帝位継承の争いの陰で仕事を果たしてきたのが――、

 

「――我ら、『選帝の儀』の勝利請負人、草の者ゴルダリオ家でござい~ってね」

 

酒杯を傍らの卓子に置いて、男は顔の前で両手をすり合わせる。

男を取り巻く豪華な家具も高い酒も、いずれも家業が順調である証。家業で成果を示せてこれたからこその取得物であり、役目を果たせなければ路頭に迷うしかない。

それだけに今回も、『選帝の儀』の開催に備えて様々な準備に奔走してきたというのに、思いがけない人物の参戦で大番狂わせもいいところだ。

 

「どこの誰だか知らないけど、『茨の呪い』なんて余計な真似してくれて……しかも使い手がヘボだったせいか、わけわかんない怪物になってるんだよなぁ」

 

様々な権謀術数や自領の兵力の比べ合いなんて向きはありつつも、究極、『選帝の儀』で行われるのは皇位継承者同士、『陽剣』を有するものの殺し合いなのだ。

その点を弁えている皇子たちは、自らの剣技を学び、相応の実力者を護衛に付け、死合いを見据えた用意を怠らない。

それらの下準備も、『茨の王』の参戦で全ては無に帰すことになる。

 

――『茨の王』ユーガルド・エルカンティ。

 

かの皇子の才気と実力、そして見舞われた『茨の呪い』の効力は絶大だ。

他の皇子たちと違い、私欲らしい私欲をまるで満たさず、領主として果たすべき役割の全うを目的に動いていたユーガルド。そもそもの為政者としての純度が違うが、当人は『茨の王』の事情を重く見て、最初から帝位を諦めた節があった。

それがまさか、意見を翻すことがあるとは。

 

「砂地をつついて『石塊』を逃がす、なんて笑い話の類だろうにさ」

 

「――ウィテカーお兄様?」

 

椅子にだらしなく体重を預け、掌で顔を覆っていた男に声がかかった。

部屋の入口に姿を見せたのは、美しい赤髪を長く伸ばした女性だ。惑った優美なドレスの裾を翻したその女性は、卓子の上の半分ほど減った酒杯に目を留めると、

 

「まあ。またこんな時間からお酒を嗜まれて……いけませんわよ」

 

「そう言うな、テリオラ、我が妹よ。明るいうちから酒でも飲まなくてはやっていられないさ。なにせ、僕の代のゴルダリオ家の仕事が呆気なく終わってしまいそうなんだ!」

 

「――。つまり、次に皇帝になるべき方を見定められましたの?それはいいことではありませんか。何が不服でいらっしゃるのかしら」

 

「決まってる!僕の掻き乱す楽しみがない!」

 

頭の上で両手を合わせ、男――ウィテカー・ゴルダリオがそう嘆く。その兄の子どもじみた態度に、テリオラ・ゴルダリオは呆れたように嘆息した。

尊敬の足りない態度と言ってやりたくなるが、一つ言い返せば十倍の正論で黙らされかねないので、ウィテカーは頬を膨らませるだけの抗議に留める。

 

「そこまで揺るぎないと仰られるなら、なおさらお酒なんて飲まれている場合ではないではありませんか。すぐにでもお目当ての皇子と接触なさらなければ、他の自称相談役の方々に先を越されないとも限りませんでしょう?おわかりですの?」

 

「黙っても正論で殴られる!はいはいはいはい、正論正論!何もかも賢く美しいテリオラ・ゴルダリオの言う通りだよ」

 

「でしたら――」

 

「――でも、まだ動かない。まだね」

 

腰に手を当て、正面に立ったテリオラにウィテカーが静かな声で答える。と、その兄の声の調子の変化を受け、テリオラがわずかに息を呑んだ。

何のかんの言って、テリオラはウィテカーの考えや方針を信用している。それは兄への尊敬の念ではなく、純粋に能力を評価しての話。

 

「間違いなく、僕は先祖代々の遺産を引き継いで何の不自由もなく生きてきた放蕩者だけどさ……先祖の遺産をうまく使うにも才能ってもんがいるんだよね」

 

「――――」

 

「さて、どうかな、ユーガルド・エルカンティ。単純に能力だけ見れば、あなたは間違いなく『選帝の儀』の最有力だ。――その能力を腐らせずに、この儀式に勝つための方策をちゃんと見出すことができるかな?」

 

そう言って、ウィテカーは顔の前で手をすり合わせながら上機嫌に笑う。

その表情を横目に、テリオラは卓子の酒杯なんかより、その甘美な期待の方がよほど兄を酔わせる悪い酒だとでもいうように、嘆息を重ねたのだった。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――古き物語は語る。

 

それは独りの王と、一人の少女の物語。

独りだった王が少女と出会い、独りではなくなった物語。

 

独りの王が少女と出会い、諦めていた道を再び歩むと心に決める。

一人の少女は王に救われ、亡くして生まれた心の穴に救いを得る。

 

狼は少女の慈悲に命をもらい、土鼠と共に王に仕え。

覇道を往くと決めた王は、その道しるべを照らす光の帯へと手を伸ばす。

 

物語は王と少女の下へ役者を集い、先へ先へと、進んでいく。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――故郷の村を失った事件以来、アイリスの生活は激変した。

 

生まれたときからずっと一緒だった両親と、家族同然だった隣人知人を亡くし、元々住んでいた土地で暮らしていく手段さえなくなったのだ。

あの村で生まれ育ち、あの村で死んでいくことを疑問に思わず過ごしてきたアイリスからすれば、故郷を離れるだけでも十分以上の大冒険だった。

しかも、変わったのは生活環境だけではなくて――。

 

「――と、ヴォラキア様式の作法には古式ゆかしい歴史があるのでモイ。アイリス殿、ご理解いただけましたモイ?」

 

「……た、たぶん、大丈夫、かもです、センセイ」

 

「よろしいモイ。では、明日からはその歴史を踏まえて、作法の実践段階へ進んでいくモイ。膝に布を巻いておくのをおススメするモイよ」

 

「膝に布、ですか?それはどうしてです?」

 

「間違いなく、何度も膝をついて転ぶことになるからモイ」

 

そう言って、土鼠人のリネックは顔の半分くらいありそうな大きな鼻を撫でて、詰め込まれた知識で頭がパンパンのアイリスを脅してくる。

思わず、アイリスは「うえ~」と呻いてしまうが、

 

「小生は脅しているわけではないモイよ。アイリス殿の運動神経なら間違いなくそうなると予測したに過ぎないモイ。その態度は心外モイよ」

 

「ご、ごめんなさい、センセイ。つい強めの私怨が出ちゃって……反省です」

 

「モイ、小生もアイリス殿を落ち込ませたいわけではないモイ。……強めに恨まれるのも当然のことと思うモイ」

 

そう言って、リネックが申し訳なさそうに肩を落とす。途端、アイリスは自分の言い方がよくなかったと慌てて手を振った。

あくまで、アイリスが嫌がったのは勉学のことであって、

 

「全然全然!センセイがわたしの村にあんなことした一味の人だってことは、できるだけ考えないようにしてますから!」

 

「も、モイ……」

 

「あ」

 

擁護するつもりが、トドメの一言になってしまったとアイリスが手で口を塞ぐ。

だが、本当にリネックを傷付けたいわけではなかった。アイリスとリネックの間の因縁は簡単に忘れられるものではないが、伏せて触れずにおくことはできる。

少なくとも、リネックがアイリスに誠実に接しようとしてくれているのは本心だ。

 

「はぁ、ダメですね、わたし……」

 

自分の力不足を痛感しながら服の裾を握りしめようとして、アイリスは指先をすり抜けそうな生地の感触に慌ててそれを引っ込めた。

今、アイリスが着ているのはドレス――それも、母や祖母のお下がりではなく、帝国貴族のような上流階級のものが纏うための高級品なのだ。

 

「この服だけじゃありません……食事も寝床も、こうしてセンセイから色々教わってる状況だって、そう」

 

濃い青の発色をしたドレスの生地を撫でて、アイリスは自分の立場を再確認する。

今、アイリスが暮らしているのはエルカンティ領の中心――回りくどい言い方をしないなら、エルカンティ家の屋敷だ。

あの日、次のヴォラキア皇帝になることを宣言したユーガルドは、居ても立っても居られないとばかりに敏速に動き、アイリスが屋敷で暮らせるよう手配した。

 

そのまま彼に連れ帰られ、あれよあれよと目を回している間に、すっかり激変した環境が今後のアイリスの暮らす場所だと、そう結論付けられたのである。

 

「混乱する気持ちは察するモイ。小生も、同じ気持ちだモイ」

 

「本当に?センセイも、わたしのことどう思ってるのかわかりそうでわからない皇帝になるって息巻く人にブンブン振り回される女の子の気持ちがわかるんですか?」

 

「そう言われると厳しいモイ!歴史上、類を見ない立場モイ!」

 

「ですよねー。……わたしなんて、ただの村娘なのに」

 

てしてしと自分の鼻を指で叩いて焦り顔のリネックに、アイリスは苦笑する。

前述の通り、この知識人な土鼠人はアイリスの村を襲った野盗の一人だ。博識で教え上手な彼は、一味では略奪品の分配や食料の管理といった役割を担っていたそうで、直接、村人を傷付けるようなことはしていなかった。

 

「それでも、小生はアイリス殿の仇の一人モイ」

 

アイリスの教育係を任され、毎日のように顔を合わせるリネックは、たびたびそうして自分がアイリスにとって何者なのかに言及する。

それは自罰的である以上に、アイリスの嘆願――野盗たちの助命を願い出て、リネックたちの恩赦を求めた決断への感謝と、深い後悔の念を忘れたくないかららしい。

ただ、リネックの瞳にあるのはその義務感だけではない、と思いたいが。

 

「よし、今日はこのくらいにしておくモイ。根の詰めすぎもよくないモイよ」

 

「え、そんな、まだまだ全然、全然へっちゃらですよ」

 

「とは言えないモイ。毎日慌ただしいし、アイリス殿が自分で思っている以上に疲れは溜まっているモイ。ただでさえ、アイリス殿の体力は乳幼児並みモイ」

 

「そんなちっちゃい子と同じ扱いは心外です!」

 

首と一緒に大きな鼻を左右に揺すり、そう言ったリネックにアイリスは抗議する。が、人並み以上の虚弱体質なのは事実なので、疲れは確かにちょっとあった。

この虚弱さが原因で、村でも力仕事や体力勝負の作業を手伝えず、もっぱら羊や牛を運動させ、牧草を食べさせる専門職みたいな立場だったのがアイリスだ。

 

「領主様のためにも、こんな調子じゃいけないのに……」

 

せっかく学ぶ場を用意されても、それを十分に使いこなせなくては意味がない。

ユーガルドもリネックも、屋敷の関係者はアイリスが無茶をしないよう気遣ってくれるが、その心遣いにアイリスは甘えすぎたくなかった。

それこそ、そんな風にアイリスを気遣わないでくれるのは――、

 

「――なんだ、テメエ。またつまらねえ顔してやがるじゃねえか」

 

「……あなたの方こそ、また壁を上ってきたんですか?怒られますよ」

 

不意打ち気味の声がして、聞き慣れたそれにアイリスが振り向く。

声がしたのは部屋の大窓の方からで、アイリスがじと目を向けると、二階にある部屋の窓枠に長い手を引っかけ、中を覗き込む黒い狼人――ヴォルカスがいた。

リネックと同じく、生き長らえたヴォルカス。彼はこうして頻繁に、アイリスがリネックから教えを受けている場面に顔を出し、野次を飛ばしてくる。

そこに悪意はないから、アイリスの方も適度に受け流せているが、

 

「訓練はいいんですか?それもあなたの仕事のはずでしょ?」

 

「ハッ、オレ以外は全員おねんねしてるよ。わかり切ってた話だろうが……危ねえ!」

 

鼻を鳴らし、平然とそう答えたヴォルカス。そのヴォルカスにつかつかと歩み寄り、アイリスは容赦なく窓枠に座る彼を突き飛ばそうとした。

もちろん、ヴォルカスと力比べしてもアイリスに勝ち目なんてありはしないが。

 

「ハッ、じゃないんですよ!あなたの方こそいつになったらわかるんですか!あなたが手加減を覚えて、他の人たちに戦い方を教えるんです!」

 

「そんなまどろっこしい真似するより、オレが邪魔な敵を全部倒す方が早い!」

 

「でもあなた、領主様にコテンパンにされたじゃないですか!」

 

「ぐう……ッ!」

 

痛いところを突かれたと、表情を歪めたヴォルカスが身を回す。押し出そうとされた反発か、むしろ窓枠にどっかりと座り、部屋の中に長い足を入れた狼人は、その鼻面に皺を寄せながらアイリスを睨み、

 

「テメエ、オレがテメエに返し切れねえ借りがあるからって調子乗るなよ……!」

 

「借りてる側がそんなにふてぶてしく宣言しないでください。恩に着せるつもりもありませんよ。そういうつもりでしたことではありませんので」

 

「テメエ!貸し借り舐めてんのか、あぁ?」

 

「借りてる側が鼻息荒くしないでください!」

 

金瞳を猛々しく輝かせるヴォルカスを怒鳴りつけ、アイリスはため息をつく。

相手が恩知らずなのは困りものだが、逆に過剰に恩を意識させられるのも困る。とはいえ、周りからすればアイリスのヴォルカスたちへの態度の方がおかしいらしい。

それはわかるが、仕方ない。ユーガルドにも聞かれ、アイリスが答えた通りだ。

 

「自分で決めたことですから。それに……」

 

「――。なんだ」

 

鼻面に皺を寄せたヴォルカス、その太い首にアイリスの視線は向けられる。

そこには仰々しく無骨な首輪が嵌められており、同じ種類の首輪はリネックの首にも、今頃は練兵場でおねんねさせられているものたちの首にも嵌められている。

 

「『服従の首輪』の装着と懲罰部隊への参加……小生たちがしでかしたことを思えば、破格の待遇というべきものモイ」

 

アイリスの視線の意味を察し、リネックが平坦な声でそう述べる。

『服従の首輪』は、特別な力の宿った道具の一種で、嵌めたものは主導権のある相手に逆らうたび、首輪を通じた罰を与えられる代物だ。

それを嵌めて反抗できなくした上で、ヴォルカスたち捕縛された野盗は懲罰部隊という犯罪者を集めた兵団に参加させられている。

そうして、彼らが荒らしたエルカンティ領を守るため、最前線で戦う兵となることが、ヴォルカスたちに課された生きるための罰則だった。

 

「――――」

 

これでよかったのか、と無骨な首輪の存在にアイリスは思い悩まされる。

その意思を捻じ曲げて無理やり従わせるのなら、戦いの連鎖を止めたいとしたアイリスの考えは、結局違った形で踏み越えられていくだけなのではないかと。

しかし――、

 

「テメエは余計なこと考えてんじゃねえ」

 

「ヴォルカス……」

 

「いい悪いじゃなく、テメエが後悔しねえために選んだことだろうが。そのあとどうなるかは、オレとかセンセイがどうなるかで決めろ」

 

「……あなたに言われるの、本当に変な気分ですよね」

 

それをヴォルカスなりの励ましと受け止め、アイリスはわずかに目尻を下げた。

そのアイリスの答えに、ヴォルカスは不機嫌に喉を唸らせて顔を背ける。ふと、そんなアイリスたちのことを、リネックが穏やかな目で見ているのに気付いた。

 

「センセイ?」

 

「モイ……何とも奇妙な縁だと思っただけモイ。でも、アイリス殿のその普通でない考え方がなければなかった関係……一介の村娘から皇妃を目指すものは違うモイ」

 

「うくうっ!」

 

「なんだなんだどうしたテメエ!?」

 

口元を綻ばせたリネックの不用意な言葉に、胸を押さえて呻いたアイリスをヴォルカスが慌てて心配する。自分の頭より大きな掌に支えられ、アイリスは自分の弾む心臓の鼓動を感じながら、「全然、全然……」と首を横に振り、

 

「皇妃とかそんな、大それたこと考えてないので……」

 

「それはおかしいモイ。ユーガルド皇子が皇帝の座に就くなら、正妃かどうかはともかくとして、アイリス殿の立場は必然的に皇妃になるモイ」

 

「いえ!本当に!全然、全然そんなじゃないので!」

 

悪気のないまま不用意を重ねるリネックに、アイリスは嫌々と首を横に振る。

そのアイリスの頑なな返事に、ヴォルカスとリネックは顔を見合わせ、首を傾げた。

 

そう、そうなのだ。二人の誤解もわからなくはない。むしろ自然だ。

だがしかし、アイリスとユーガルドは二人が思っているような、そんな情熱とか愛情が絡んだ関係性ではないのだ。

じゃあ、何なのかと聞かれると困る。

 

「そんなの、わたしの方が聞きたいんですけど」

 

家族も故郷もなくなり、屋敷へ連れ帰られたアイリスの立場は謎だ。首輪を嵌められていないだけで、懲罰部隊に入れるつもりで連れ帰った可能性すらある。

さすがにそれは冗句だが、そう言いたくなるぐらい、何も言われていない。

 

「……肝心の領主様はずっと忙しそうにされてますから」

 

もちろん、皇帝の座を目指すと決めた以上、やらなければならない準備はアイリスの想像なんて及びもつかないぐらいたくさんあるのだろう。

そのせいでほとんどアイリスと顔を合わせる時間もなく、離れの方の屋敷で色々な相手に手紙を書いたり、矢文を放ったりしているのも頷ける。

 

「でも、不安ですよ、わたし」

 

アイリスのために皇帝になると、ユーガルドはそう臆面もなく宣言した。

あまりにも畏れ多すぎるその宣言は、素直に解釈すれば他の解釈のしようがないぐらい真っ正直に、アイリスへの、ある種の、求愛とか求婚とかそういうものに思える。

だが、ユーガルドは一筋縄ではいかない。

 

「まさか、わたしと話したいと思ってもいいかって聞いたのが、本当に頭で考えることの許可をもらったつもりだったなんて思いもしませんでしたし」

 

道理で、毎日のように街道を見張っていても姿を現さないわけだ。

それについて追及しても、ユーガルドは「村へ足を運ぶ適切な理由がなかった」と答えたが、そもそも「会いたい」とか「話したい」が適切な理由なのだ。

そういう、欲求の表し方が極端に不器用な傾向がユーガルドにはある。

 

「なので、どこまでいってもわたしが一人で勝手に盛り上がっているだけかもしれないという恐怖が消えないんです。これ、わたしがおかしいですか?」

 

「不憫だモイ……」

 

自分の両手を見ながら、見えない足場を渡るような心地のアイリス。そんなアイリスの様子をリネックが飾らない言葉で憐れんだ。

 

「――――」

 

が、それを聞いてさぞかし馬鹿にしてくるだろうと思ったヴォルカスは、意外にも何も言わずに頬杖をついて黙り込んでいた。

それが意外に感じられ、訝しむアイリスに「おい」と彼は口を開き、

 

「領主野郎の考えがわからねえって話はわかった。なら、テメエはどうなんだよ」

 

「え?」

 

「あの領主野郎が何考えてようと、テメエが領主野郎の方を向いてねえなら意味ねえだろ。だから、テメエはどうなんだよ」

 

そうヴォルカスに問い質され、アイリスは目をぱちくりとさせた。

あまりに真っ当なヴォルカスの意見に面食らって、というのは言い訳だ。事実、アイリスはヴォルカスの質問に胸を射抜かれ、言葉に詰まった。

 

「わたしは……」

 

ユーガルドのことをどう思っているのか。

そう改めて問われ、アイリスはその答えを自分の胸中と、これまでの決して多いとは言えないユーガルドとの接点を回想して考え――、

 

「――アイリス様、よろしいですか」

 

と、その結論が出る前に、部屋の扉が外からノックされ、声がかけられる。

ここ最近で耳に馴染んだその声は、アイリスが世話になっているエルカンティ家で働く使用人――その中でも重要な仕事を任された執政官のものだ。

「どうぞ」とアイリスが入室の許可を出すと、執政官は扉を開け、窓枠に腰掛けたヴォルカスを胡乱げに見たあと、小さく息をつき、

 

「ユーガルド様より矢文が。離れの方へ戻っていただきたいと」

 

「ま、間が悪い……!」

 

「アイリス様?」

 

「い、いえ、全然全然、何でもないです!離れですね、わかりました。……離れ!?」

 

「え、ええ、そうですが……」

 

呼び出しがかかったと、そう理解の追いついたアイリスの反応に執政官が驚く。その背後ではヴォルカスとリネックが声を潜めて、

 

「今、アイリス殿をいかせるのは酷だモイ」

 

「しどろもどろになられて領主野郎に幻滅されても困んだよな。まだ、オレの方の借りが返せちゃいねえからよぉ」

 

「縁起でもないこと言わないでください!いきますよ、いきますとも、いけばいいんでしょう!」

 

「そ、そうです」

 

獣人二人の密やか話に発奮し、前のめりになるアイリスに執政官がたじろぐ。話についてこられていない彼を困惑させて申し訳ない。

アイリスは小さく咳払いすると、それからきゅっと背筋を正した。

そして――、

 

「いってきます。センセイ、また明日。ヴォルカスはもうサボってはいけませんよ」

 

「気を付け……いいや、良き時間を過ごすといいモイ」

 

「オレがサボってんじゃなく、他の連中が情けねえんだ」

 

「あなたも努力するんです!言うことを聞いてください。わたしは貸してる側ですよ!わたしの家族殺したでしょ!」

 

「それテメエで言ってて苦しくならねえのか!?」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「そなたは強張った顔をしていても可憐だな」

 

数日ぶりに迎えたアイリスの姿に、ユーガルドは忌憚ない気持ちを述べていた。

実際、きりりと頬を硬くし、ピシッと眉を立てたドレス姿のアイリスは、村娘の牧歌的な装いだった頃と印象を一新し、また新たに輝いて見える。

しかし、そのユーガルドの言葉に、アイリスは勢いよく顔を背けると、

 

「……そんな美辞麗句、誰にでも言っているのでは?星って呼び方も、ほら、星の数ほどなんて言い方もありますし」

 

「――?あくまで作法として麗句を述べることがあるのは否定しないが、余自身の心中に則って可憐と称するのはそなただけだ。星も、満天の中でひと際輝くものしか余の目には入らぬゆえな」

 

「ぐ、うううう~」

 

顔を背けたまま、アイリスの顔が頬や耳まで赤くなる。

じっくりと彼女を観察していて気付いたことだが、アイリスがこうして赤面するのは、ユーガルドの言葉に怒りを覚えているからではなさそうだ。

ただ、言いたいことはあるのに言えないというような反応なので、できれば彼女が口を閉ざす理由を取り除いてやりたいところではある。

 

「で、でも、そのわりにはわたしをほったらかしでしたよね。もちろん、大きな部屋とか綺麗なドレスとか、生活に不自由しないように気遣ってもらってますし、わたしのお願いを聞いてヴォルカスやセンセイにも道を作ってくれました。じっとしてるのは落ち着かないって言ったら、センセイや執政官さんを通じて色々教わる機会も……ううっ」

 

「む、どうした。立ち眩みか?」

 

「眩暈も起こしますよ……自分で言っててあまりにも何不自由なさすぎて、わたしは何に文句を付けてるんだろうってなりました……」

 

額に手の甲を当てて、そう述懐するアイリスにユーガルドは困惑する。が、ひとまず待遇に対する不満ではないようなので、そこは安心した。

指示は出せても、細かな対応までは使用人たちに任せるしかなかった部分だ。疲労が募って彼女が倒れでもしたら大ごとだと、気を揉んではいたのだから。

と、そのユーガルドの安堵は、しかし次の一言までだった。

 

「よくしてもらっています。……でも、あなたがいませんでした」

 

「――我が星」

 

「不安です。これだけよくしてもらって、これだけ手を尽くしてもらってるのに……そうしてもらえる理由が、わたしの中に見つからないから」

 

背けていた顔を前に向け、正面からアイリスがその不安を口にした。それを聞いて、ユーガルドは自分の浅慮さを鋭く痛感する。

彼女に悲痛な顔をさせたのは自分で、自分はそれに気付きもしなかったのだと。

 

「すまぬ、我が星」

 

その自戒を胸に、ユーガルドはアイリスの目の前で跪いた。彼女が驚きに目を丸くしたが、その桜色の唇が開かれる前に続ける。

 

「余とて、そなたと言葉を交わしたいと何度思ったか知れぬ。だが、皇帝になるとそなたに強く宣言した身で、成果もないままそなたとの時間を甘受するなど恥ずべき行為だ」

 

「真面目すぎる!恥ずべきとまで言いますか!?」

 

「唾棄すべき行為だ」

 

「より悪くなった!」

 

跪いたまま、自分を見上げるユーガルドにアイリスがわなわなと唇を震わせる。それから彼女はふと気付いたように、それから少し躊躇って、そっと手を差し出した。

白く細い指、差し出された右手をユーガルドは恭しく取り、その甲に口付ける。

 

「余がこうするのも、こうしたいと思えるのもそなただけだ、我が星」

 

「~~っ、わ、かりました……わかりましたから!はい、おしまい!」

 

ますます顔を赤くしたアイリスに言われ、ユーガルドはその手を取ったまま立つ。それから彼女の手を引いて部屋の奥へ誘い、二人で並んで長椅子に座った。

 

「どうして隣に……」

 

「向かいに座るよりそなたが近い。不快ならば向こうへゆくが……」

 

「無自覚に卑怯!いいです。……隣にいてください」

 

最後の方は小声になっていたが、アイリスの言葉は聞き逃さない。ユーガルドは胸に温かなものを覚えながら、その彼女の大らかさに感じ入った。

そのユーガルドの傍らで、彼女は執務室の奥にある机を見やり、

 

「……また、休みも取らずに手紙を書いていたんですね」

 

机の上、そこにはくたくたになった羽根ペンと空のインク壺、書き損じた文や、必要な情報が書かれた本、そして端によけただけの食器が重ねられている。

ユーガルドの体質上、身の回りのことは自分でする必要があるため、部屋の片付けや食器を下げることさえユーガルドが自分でするのが日常だ。――否、日常だった。

 

「あとで、わたしがやっておきますね。他の方たちにはできないので」

 

そう申し出るアイリスだけが、『茨の王』の館へ出入りできる例外だ。

まだふた月も経っていないが、アイリスがこの離れに出入りするようになって、ユーガルドの孤独な二十年の生活は一変したと言っていい。

その感謝を、どうすれば伝えられるのかも非常に難題だ。

 

「あれらの片付けなどそなたにさせずとも、余が己ですると言っていように」

 

「思いやりに見せかけたお節介やめてください。せっかく、唯一ってくらい胸を張ってわたししかできない仕事なんですから、させてください」

 

「そうか。そなたを喜ばせるのは難しいな」

 

「……そんなに難しい女じゃないつもりなんですけどね」

 

配慮が不要と言われたあと、そう続けるアイリスにユーガルドは悩まされる。

どうやら、アイリスには自分が難攻不落の娘である自覚がないらしい。自分で自分の足下が見えていないのか、その鉄壁の堅さと高さは筋金入りだ。

そうでなければ、こうして延々と彼女を喜ばせたいと考えているのに、それがうまくいかないユーガルドの苦心に説明がつかない。

ともあれ――、

 

「さっき、何かなかったらわたしに会えないって言ってましたけど……」

 

「そなたにかかれば、余の格式ばった物言いも親しみを増すものだな」

 

「そういうのはいいんです。――わたしを呼んでくれたってことは、領主様の方でそうしてもいいって自分で思える何かがあったってことですよね?」

 

「そうだ。よくぞ聞いてくれた」

 

まだ頬にわずかな赤みを残したアイリスに、ユーガルドは大きく頷いた。

ユーガルドがこうして数日ぶりにアイリスの前に顔を出せたのは、彼女が察した通り、『選帝の儀』へ向けた準備に前進があったからだ。

 

「余が帝位に就くために、なんとしても手を借りねばならぬものがいた。そのものの名や居所、実在するかを確かめるのにずいぶんと苦労したが……」

 

「じ、実在も疑わしいような人なんですか?」

 

「いる、とは考えていた。だが、帝国史においても存在を明言されたことはなかった。ある意味では『選帝の儀』における、秘中の秘とも言えよう」

 

「それ、わたし聞いてもいいお話ですか……?」

 

自分の顔を指差し、おそるおそるといった様子でアイリスが聞いてくる。ユーガルドはその彼女の手を取ると、立てた指をその柔らかな頬にそっと当てさせた。

その行為にアイリスが疑問符を浮かべたが、ユーガルドもその疑問の答えを持っていない。ふと見て、反射的にしてしまったことだった。

 

「心配は無用だ。そなたは余と同じ陣幕の一人となる。いざ『選帝の儀』が始まれば、よほどのことがない限りは事情を共有するつもりだ」

 

「あの、今、わたしに自分の頬を突っつかせた説明は?」

 

「余もわからぬ。秘中の秘を明かしても構わぬか?」

 

「……どうぞ?」

 

まだ納得していない顔に指を立てながら、アイリスがそう頷いてくれる。それを受け、ユーガルドは自分の服の内から一枚の手鏡を取り出した。

それを目にして、アイリスが「鏡?」と目を瞬かせ、

 

「その鏡が、皇帝争いの秘密なんですか?」

 

「それに通ずるものだ。余が『茨の王』でなければ、相手と直接対面して言葉を交わすことも叶ったのであろうがな」

 

そう言いながら、ユーガルドはその手鏡をアイリスへ渡す。受け取ったアイリスはしげしげと鏡を眺め、鏡面に可憐な自分の顔を映して不思議がっていた。

 

「その鏡は『対話鏡』と呼ばれる魔具の一種だ。二枚で一対となるもので、鏡を通して片割れを持つ相手と言葉を交わすことができる」

 

「え、領主様が初めて口にされる冗句?」

 

「冗句や戯言の類ではなく、事実だ。……いや、余も実物を取り扱ったことがあるわけではないから、余も謀られていたならわからぬ話か?」

 

「混乱させてごめんなさい。全然全然、信じます信じます」

 

考え込むユーガルドに鏡を返しながら、アイリスがぺこぺこと平謝り。その受け取った鏡に自分の仏頂面を映しながら、ユーガルドは内心で自省を促した。

確証もないのにアイリスを呼びつけたのは、会いたい気持ちが先行して判断力が鈍っていたと言わざるを得ない。大いに反省が必要だ。

と、そのときだった。――ユーガルドの手の中で、対話鏡が光を放ったのは。

 

「きゃっ、領主様!?」

 

「指定された時刻となった。相手から対話の呼びかけを受けているものと思うが」

 

ちらと、光っている対話鏡を手にしながらアイリスの方を窺う。彼女は鏡面の光に驚いていたが、ユーガルドの視線に気付くと表情を引き締め、頷いた。

それを見て取り、ユーガルドは対話鏡の鏡面を指で叩くと――、

 

『――お初にお目にかかります、ユーガルド・エルカンティ閣下』

 

次の瞬間、光の収まった鏡面に映っていたのはユーガルドの顔ではなく、初めて目にする優男の笑顔だった。

濃い赤色の髪に、糸のように細い目をした柔和な面持ちの青年だ。――年齢はユーガルドとさして変わらない二十代前半、その若さは意外に感じられる。

ユーガルドの想像では、もっと年かさの老練な相手が出てくるものとばかり。

 

『もしかして、僕が予想より若くて驚いてたりしますか?』

 

そのユーガルドの心中を、鏡越しの青年がピタリと言い当ててくる。そのことにまたユーガルドが何故、と驚きを得ると、

 

『当てずっぽうですよ、当てずっぽう。ただ、ちょっと想像力を働かせただけ。ちゃんとした目的意識があって僕を探し当てた人は、初めて僕を見かけたらそんなことを思うんじゃないかなって……当たりました?』

 

「見事だ。そなたの想像力は、確かに事実を的確に言い当てた」

 

『おお~、やりました。嬉しいお言葉です』

 

「称賛は堂々と受け取るがいい。その上で改めて名乗ろう。――余が、ヴォラキア帝国特別上級伯、ユーガルド・エルカンティである」

 

鏡越しの口上とはいささか奇妙な形だが、ユーガルドは厳かにそう名乗った。

そのユーガルドの口上に、相手の青年もまた鏡越しだからと礼儀を欠かず、鏡面から見える範囲でも完璧と言える作法で以て一礼し、敬意を示す。

手指の先々まで完璧に意志の通った挙動、そこにユーガルドは確信を持つ。

 

「さすが、作法は徹底しているようだな、『選帝の儀』の相談役よ」

 

「相談役……!?皇帝争いって、そういう人がいるんですか?」

 

『おや』

 

鏡越しの相手の立場を聞いて、傍らのアイリスが目を見張る。当然、その彼女の声は対話鏡の向こうにも聞こえ、相手は顔の前で両手をすり合わせると、

 

『もしや、ご一緒されているのは噂のアイリス様ですか?』

 

「え、え、え?噂?」

 

「耳聡いな。我が星のことも知っているのか」

 

『もちのろんです。我が家の生業からすれば、皇位継承権をお持ちの皆様の動向を気にかけているのは自然なことかと。日常の些細なことから、そうではない大きめの出来事までちゃんと詳細は押さえてますとも』

 

「空恐ろしいものだな」

 

ある種、それは皇帝に連なる皇族に対する不審な行為の自白だが、ユーガルドはその点を指摘はしなかった。確かに空恐ろしいと評したのは紛れもない本音だ。

しかし、その空恐ろしさは一転、

 

「それが余に力を貸すとあれば、頼もしい」

 

『――。まだ、そうするかどうかは決まったわけではないですよ?』

 

「む、そうなのか?」

 

堂々と味方に付けたつもりで話していたので、そう指摘されて恥じ入るばかり。

傍らのアイリスにも恥ずかしいところを見せたと、そう悔やむ気持ちがあったのだが。

 

「……それ、嘘じゃないですか?」

 

「我が星?」

 

恥じ入るユーガルドの横から、鏡を覗き込むアイリスがそう尋ねていた。

それはたびたびアイリスがユーガルドの前で見せる、どこかおっかなびっくりという態度ではなく、確信めいたもののある問いかけだ。

そのアイリスの質問に、青年はほんの少し虚を突かれた顔をした。

 

『アイリス様、僕は今、ユーガルド閣下と大事な話の最中でして。いくらあなたが閣下の寵姫であっても、領分というものがあるでしょう?』

 

「ち、寵姫とか言うのやめてください!全然、全然そういうのじゃないので。……横から口出しするなって言われたら、それはそうなんですけど」

 

「構わぬ。我が星のしたいことをさせるのが余の本懐だ」

 

『うわぁ、べた惚れ』

 

鷹揚に頷いて許可すると、肩をすくめた青年にアイリスが息巻く。青年を味方に付けるのが目的だが、こうしてアイリスと同じ敵に向き合うのは気分が高揚する。

ともあれ、アイリスは「あのですね」と前置きすると、

 

「あなたの言う通り、わたしは皇帝争いについてなんて何にも知りませんし、ここでも領主様のご厚意で置いてもらっているだけの村娘です。そりゃちょっとは話せるようになればいいかなって、今色々教わってる最中ですけど……」

 

『もしもーし、惚気ですか?僕もお酒入れましょうかね?』

 

「でも!わたしだって片田舎だろうと帝国の人間です。難しいことはわからなくても簡単なことはわかる!――あなたは、領主様を閣下って呼んでるじゃないですか」

 

『――――』

 

「それは領主様が皇帝だって、あなたが認めている証拠なんじゃないですか?」

 

そのアイリスの指摘に、鏡の向こうの青年は沈黙する。

どうだ、と言い切ったアイリスは興奮で頬を赤くし、何なら少し鼻息も荒い。正面から相手の欺瞞を打ち砕き、達成感に満たされているのがわかった。

ただし――、

 

「我が星、閣下という敬称は皇帝のみならず、皇位継承者を尊ぶ際には比較的頻繁に用いられるものだ」

 

「はえっ……そ、そうなんですか?」

 

「そうだ。だが、強い確信を持って切り込むそなたの横顔は可憐だった」

 

「間違ってたみたいですけどね!?」

 

確信の根拠をひっくり返され、アイリスが両手で「あ~」と顔を覆う。そうされるとアイリスの顔が見えないので、覆った手をどけたいとユーガルドは思ったが。

 

『ふ、ははは、面白いなぁ』

 

そのユーガルドの思惑は、鏡の向こうからの笑い声によって不発に終わった。

俯き、肩を震わせる相手の反応に、アイリスが両手をどけて気まずそうな顔を見せる。

 

「あの、今のわたしの威勢のいい言葉なんですけど……」

 

『ユーガルド閣下の仰る通り、決定打というにはちょっと甘いかもでしたね。ですが』

 

「ですが?」

 

『その敬称を用いたのが、このウィテカー・ゴルダリオである点を踏まえれば、アイリス様のお考えは間違いではありません』

 

俯けた顔を上げ、青年――ウィテカー・ゴルダリオが胸に手を当て、そう応じる。彼の答えにアイリスが目をぱちくりとさせ、ユーガルドも目を細めた。

今のウィテカーの発言は、はっきりと自分の意思を表明していた。

 

「他の受け取り方が難しい発言だ、ウィテカー・ゴルダリオ。そなたは余を皇帝と……次の皇帝と仰ぐつもりがあると、そう解釈するよりないぞ」

 

『そう考えていただいて一向に構いませんとも。お伝えした通り、我が家は『選帝の儀』と切っても切れない生業……次代の皇帝についても、いずれの皇位継承者が支えるに値するかは吟味に吟味を重ねておりました』

 

「皇族を秤で比べようとは不敬極まりないな。だが、職業意識の高さ故と許そう」

 

『寛大なご判断に深い感謝を』

 

「しかし、良いのか?――余は『茨の王』だ」

 

自分に味方すると表明したウィテカーに、ユーガルドはそうはっきり聞いた。

隣のアイリスが身を硬くし、心配げにこちらを窺うのが伝わってきたが、こればかりは確かめずにおれない前提だ。

 

ユーガルドがアイリスと出会う前、帝位を諦めていた理由が『茨の王』にあるなら、他のものがユーガルドの帝位を厭う理由がそれにあっても当然だ。

ウィテカーは皇位継承者たちを入念に調べていた。ならば、ユーガルドの体質についてもよく知っているはずだ。

 

「その上で余を帝位へ就けようというのは容易い決断ではない。そなたの助力を必要とする立場だが、納得いく話は聞きたいところだ」

 

『怖いもの知らずな方だ。我が家の力が必要なことは自覚されているのに、その決定権を持つ僕へぐいぐいと切り込むことを恐れない』

 

「恐れを知らぬものが皇帝だ、などとは言わぬが、たとえ必要な相手であろうとその顔色を窺って言葉を選ぶことはせぬ。余が言葉を選ぶとすれば、それは相手を恐れるからではなく、相手を敬うからだ。――我が星をそうするように」

 

「ひえっ」

 

その肩を引き寄せられ、アイリスが裏返った声で悲鳴を上げる。そんなユーガルドの答えと意思の表明を受け、ウィテカーは糸目をより細め、手をすり合わせた。

それからしばし、緊張した空気が流れたが――、

 

『――そのお考えですよ、閣下。僕が閣下に注目する理由は』

 

「余の考え?我が星のことを思う以外の考えか?」

 

「だ、大部分を占めてそうで怖い言い方……!」

 

『恐れながら申し上げますが、閣下の境遇……『茨の王』と呼ばれる体質について、我が家も事情は把握しています。その体質を理由に閣下は苦悩されてきた。違いますか』

 

「続けよ」

 

ユーガルドの体質に触れれば、その怒りに触れることにもなりかねない。多くのものはそんな懸念から、ユーガルドの茨を深く掘り下げることを避けてきた。

たとえ鏡越しであろうと、それに触れてきた姿勢は認めなくてはならない。

 

『人によっては自分の人生を儚み、世を呪っても不思議のない境遇です。ですが、閣下はそうされず、宿業と受け入れようとさえしたとお見受けしました。その閣下が、世への怒りでも人生への嘆きでもなく、別の理由で帝位を目指されると決めた。――これを我が家では、古き時代の言葉で『どらまてぃっく』と言います』

 

「……知らぬ言葉だ」

 

『いいんです、それはいいんです。ただ、我が家では……少なくとも僕は『どらまてぃっく』であるものを望みます。閣下の振る舞いとお考えにはそれがある!それに』

 

「それに?」

 

『閣下につくのが一番勝算が高い。なんだかんだ言っても、僕も我が家を潰すわけにはいきませんから、勝ち戦を選ばなくては、ね?』

 

笑みを浮かべ、そう締めくくったウィテカー。彼の答えを吟味し、ユーガルドはそれがどこまで信に値するものか見極めようとする。

当然だが、腹の底を何もかも出し尽くした言葉ではあるまい。だが、かといって何もかも全部が嘘偽りというのも危うすぎる。

判断基準とした『どらまてぃっく』なる考えも、真剣に考えるべきか――。

 

『では、こうされてはどうでしょう。――アイリス様に御判断いただいては』

 

「――。ウィテカー・ゴルダリオ」

 

『大事にされたい閣下の気持ちは理解します。ですが、閣下がアイリス様を隣に置き続ける以上、ただ寵姫として慈しまれるだけではやっていけないでしょう。何より』

 

「――――」

 

『アイリス様御自身がそれを望まれない。違います?』

 

ウィテカーはそう言って、言葉巧みにアイリスを舞台上へ引き上げようとする。

そのウィテカーの思惑はわからないまでも、ユーガルドはそれに反対だった。もうすでに十分以上、アイリスにはこちらの勝手を押し付け、強要している。

これ以上、アイリスに負担を強いるようなことは――、

 

「領主様……いいえ、閣下」

 

そのユーガルドは焦燥感は、間近で自分を見るアイリスの眼差しに吹き消された。

アイリスは真剣な目でユーガルドを見つめ、懸命な面持ちで頷く。

 

「あの人の言う通り……って、ちょっと情けないですけど、そうです、はい。わたしも、ただあなたのお傍に置いてもらってるだけなのは……ダメだし、嫌です」

 

「それは、だが……」

 

「全然、全然負担とかじゃないです。むしろ、やることはたくさんあった方がありがたかったりします。しかもそれが、あなたの……閣下のお役に立てることなら!」

 

「――――」

 

強い決意と決心を秘めた瞳に、ユーガルドは己の胸を突かれる衝撃を得た。

それと同時に、突かれた胸の奥から湧き上がってくる熱に焼かれ、この場にいる自分の体が浮かび上がったような感覚さえ覚える。

その全てが、ユーガルドにとって初めてのことで。

 

「わたしは閣下に皇帝になってもらいたいので、そのためにあなたの力がどうしても必要だって言うなら、閣下のお手伝いをしてほしいです」

 

『お手伝い。はは、お手伝いですか、それはいい。アイリス様がそう言ってくださるなら我が家も張り切ってお手伝いを――』

 

「その代わり、わたしはちゃんとあなたたちを見ています。閣下は……意外と、危なっかしいところもある方なので!」

 

『――――』

 

押し黙ったユーガルドに代わり、アイリスがはっきりと鏡にそう宣言する。そのアイリスの言い放った言葉に、ウィテカーは微かに糸目を見開いていた。

その、ようやく見えた琥珀色の瞳を揺らしたあと、ウィテカーは恭しく頭を下げ、

 

『承知しました、アイリス様。それは実に、僕好みの答えでしたよ』

 

そう応じ、皇位継承者と『選帝の儀』の相談役の最初の会合を締めくくった。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――『対話鏡』による通信が途切れ、ウィテカーは鏡面を伏せて伸びをする。

 

件のユーガルド・エルカンティとの初対面は、上々の結果に終わった。

その人柄や『選帝の儀』を見据えた考えなど、領地の運営方針から察せられる部分もあったが、やはり直接話せた方が得るものはずっと多い。

 

「おっと、鏡越しだから直接話せたとは言わないかな?」

 

「お兄様、お話は済みましたの?でしたら目を通していただきたいものが――」

 

そこへ、見計らったような間で妹のテリオラが部屋に現れる。

扉を開けて、直前までユーガルドと話していたウィテカーと目が合うと、テリオラはその整った顔立ちの眉間に一本の皺を寄せた。

それを教えるように、ウィテカーは自分の眉間を指差すと、

 

「渋い顔をすると皺が残るぞ、テリオラ」

 

「誰のせいだとお思いですの?まったく……なんて格好ですか、お兄様」

 

「対話鏡越しの話し合いだよ?見えてる範囲だけちゃんとしてたらいいでしょ」

 

そう言って、ウィテカーは礼服の上着の襟を正しながら、膝下を剥き出しにした軽装の足を持ち上げ、テリオラに笑いかける。

もちろん、こんな真似は他の会議の場ではできないが、今回は例外だ。

 

「別にユーガルド閣下を馬鹿にしてるわけじゃないさ。極力、無駄な労力を省いているだけ。この対話鏡にしたってそう。矢文なんかよりよっぽど効率的だ」

 

「……それだって容易く手に入るものではありませんわ。ずいぶんと、ユーガルド閣下を買われていらっしゃるのですね」

 

「『どらまてぃっく』は欲しいさ。でも、破滅を望むわけじゃない。勝ち筋がちゃんとあるものの中で、一番見返りの大きな相手と手を組むんだよ。ユーガルド閣下は我が家の存在を確信して、探り当てるまでして条件は満たした」

 

頬を歪めて笑うウィテカーに、テリオラは呆れ顔だが何も言えない。

妹は賢く有能だが、その行動は規範的すぎて面白味に欠ける。帝国の裕福な家庭に生まれているのに、いつも背中に刃を突き付けられているような真剣さ。

 

「少しは遊びを……いや、危険を冒してみるのもいいと思うけどね」

 

「そのような無謀な行いをして、何が得られると言いますの?」

 

「そうだなぁ。――次代の皇帝の、寵姫の座とか」

 

「――――」

 

顔の前で両手をすり合わせ、そう笑みを深めたウィテカーにテリオラがさっと顔を憤慨で赤くする。テリオラも、今の発言の真意がすぐ察せたのだ。

 

「不思議なお嬢さんだったよ、アイリス様は。どう見てもユーガルド閣下に振り回されているのに、根っこのところで土が硬い」

 

「報告にあった似顔絵を見ましたが……特別、容姿に優れている印象も受けませんでしたわ。素朴で可愛らしいとは思いますけれど」

 

「自分の方が美人?」

 

「言わされたくありませんけれど、そうですわね」

 

したくない自賛をさせられ、不機嫌なテリオラにウィテカーは頷く。

テリオラの認識は正しい。ウィテカーも家族の贔屓目抜きに、十人が十人、アイリスよりもテリオラの方が優れた容姿の持ち主と評価するだろうと考える。

ならば、ユーガルドが求めたのは美貌以外の能力かとも思われるが、調査してもアイリスだけが持っている特別な才能なんて見当たらない。せいぜい、周りの人間に気に入られやすいのと、動物が寄りつくくらいのものだ。

そうなると、やはりアイリスを特別たらしめているのは――、

 

「『茨の王』であるユーガルド閣下の傍にいて、平然としていられる理由」

 

「――お兄様は、ユーガルド閣下の事情はおわかりなのですよね?」

 

「うん?ああ、閣下の体質は『茨の呪い』って呪術が原因だよ。ただ、ほとんど記録が残ってない上に、文献と違った働き方をしてて評価が難しい。誰がかけたかわからなくて聞き出すのも難しいし……だから、掘り下げるならアイリス様の秘密だな」

 

手を擦り合わせる動きを止めて、ウィテカーは必要な方針を心に留める。それを聞いたテリオラが眉を顰めるのを糸のように細い目で捉え、肩をすくめた。

常々、冷静でいようと志しているくせに、内心の隠せない妹だ。

 

「心配しなくても保険だよ、保険。アイリス様の存在がユーガルド閣下が『選帝の儀』に参加するって決めた理由なら、心変わりされないように気を付けないとだろ?」

 

「それは、理屈はわかりますけれど……」

 

「ああそれと、兄としては妹の恋路を応援したい気持ちがないわけじゃないんだ」

 

「な……!?」

 

ハッと目を見開いて、テリオラがこちらの顔を凝視してくる。しかし、ウィテカーはゆるゆると首を横に振り、「脇が甘い」と指を立てて、

 

「似顔絵付きの報告が上がったのはアイリス様だけじゃないんだ。エルカンティ家に最近加わった懲罰部隊もあるけど、当然、ユーガルド閣下のものもある。ずいぶんと、後生大事に眺めているようじゃないか、テリオラ・ゴルダリオ嬢?」

 

「や、やめてくださいな!からかうような真似……悪趣味でしてよ!」

 

「だから違うって。信用がなくて兄心は寂しいよ。――さて」

 

笑み含みで言ったあと、ウィテカーは机の上の対話鏡を取ると、それを丁寧に木箱の中にしまい込み、ゆっくりと席を立った。机の脇にかけてあった、礼装と一揃いの下衣を今の軽装と穿き替え、姿見で身嗜みを整える。

そのウィテカーを、テリオラが複雑な目で見ているのがわかった。

 

「このあとは対話鏡でってわけにいかないからね。必要なことさ」

 

「結局着替えるのでしたら、ユーガルド閣下とお話しされるときも同じですのに」

 

「ははは、違う違う。閣下には、これからお支えする立場として誠意ある態度。だけど、このあとは別だよ。――草の者として、誰かを利用して陥れないと」

 

そう言って、ウィテカーはテリオラの横を抜け、扉を押し開けて部屋の外へ。

廊下ではゴルダリオ家の目となり耳となる役目のものたちが整列し、ウィテカーからの指示が飛ぶのを待っている。指を鳴らし、そのものたちへ符丁の指示を出しながら、ウィテカーは最後尾の一人、その人物の前で足を止める。

それは美しく、煽情的な雰囲気を醸し出した女で、必要とされるときに備え、自分の武器を磨き続けてきた人材だ。

 

ウィテカーはその女の顔を両手で挟み、上を向かせる。

そして、その仕上がった顔に頷きかけ、

 

「用意はできているね?」

 

「はい、滞りなく」

 

「よろしい。では、僕たちの仰ぐべき皇帝は見つかった。――古き時代の象徴たる、ラドカイン・ヴォラキア皇帝閣下には退陣いただこう」

 

そう、神聖ヴォラキア帝国の最も重要な儀式、時の皇帝にしか決める権利が与えられないはずのそれを始めると、事も無げに言ってのけたのだった。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

先だっての鏡越しの会合以来、ユーガルド・エルカンティを帝位に就けるための計画は着々と進められていた。

 

『選帝の儀』の勝利請負人とまで言われるゴルダリオ家の協力で、これまで『茨の王』という恐ろしい風聞でしか知られてこなかったユーガルドの存在感が拡大する。

これまで、あえて表舞台に立たないことを選んできたユーガルドだが、その整った容姿と優れた政治的手腕、自ら先陣を切って領地の安寧のために野盗と切り結んだ事実などが知れ渡ると、その風向きは一気に変わった。

次代の皇帝を争う『選帝の儀』、その有力候補と見られていた皇子たちと並んで、引けを取らない存在として注目を集める立場となったのだ。

 

「もちろん、『選帝の儀』は人気取りで決着するものではありません。どれほど周囲を味方に付けようと、最終的な闘争で敗れればそれまでです」

 

「それは……でも、だったらどうして、閣下たちは噂を広めているんです?」

 

「すぐに聞いてしまうのではなく、ご自分でも考えてみなさいな。どうして、閣下やお兄様は『選帝の儀』の決定打にならないことに労を費やしてらっしゃるのか」

 

「……もしかして、『選帝の儀』のためじゃない、とか」

 

おそるおそる、アイリスはそう自分の考えを口にしてみる。と、それを聞いて目の前の赤髪の女性、テリオラ・ゴルダリオは切れ長の瞳をスッと細め、

 

「及第点ですわね」

 

「ほっ」

 

「このぐらいでホッとなさらないでくださいまし。まさか当てずっぽうではありませんでしょう?どうしてそう思いましたの?」

 

「ええと、これ言うの恥ずかしいんですけど……そういう、目の前のことよりも、ちょっと先のことを考えてるのが閣下らしいかなと思いまして……」

 

確信、というには希望的観測が過ぎたアイリスの発想。その答えにテリオラは目を何度か瞬かせると、わずかに失望した風に嘆息した。

そう反応されると、わざわざ講義してくれている彼女に申し訳ない気持ちになる。

 

「大雑把に、アイリス様の認識で間違いではありません。すでに閣下は『選帝の儀』ではなく、その後の皇帝としての務めに意識を向けてらっしゃいますの。閣下もお兄様も、勝利を疑っていないということですわね」

 

「それは……頼もしいですね?」

 

「他人事のように、しゃんとご理解してくださいな」

 

やれやれと、理解力に不安のあるアイリスにテリオラが首を横に振った。

今、こうしてアイリスに『選帝の儀』の前哨戦の戦略について説明してくれているテリオラは、ユーガルドの相談役となったウィテカーの実の妹だ。

ゴルダリオ家は代々、『選帝の儀』に参加する皇子の応援をしている家らしく、テリオラもその家の生まれとして家業に関わっているとのこと。忙しく国中を飛び回って各所の調整に奔走するウィテカー、その連絡役として屋敷に常駐している立場だった。

 

「――――」

 

すらりと背が高く、長い赤髪も艶やかな美しいテリオラは、初めて目にしたときからアイリスに強烈な引け目を感じさせる同性だった。

エルカンティ家で暮らすようになってから、村では決してお目にかかれない着飾った女性を目にする機会が何度かあった。それこそ、屋敷の侍女ですら一介の村娘と比べれば輝いているのだが、テリオラの印象はそれら全てを吹き散らすものだ。

 

正直、アイリスは『美女』という言葉の意味をテリオラを見て初めて知った。

そのぐらい、テリオラの美貌は実と飾が高度に両立している。素材の美しさを着飾ることで際立てる技量、彼女と見比べれば見比べるほど、ますます自分が分不相応な衣に袖を通している事実が滑稽に思えてくるほどだ。

しかし、アイリスがテリオラに引け目を覚える理由は、彼女が優れた容姿の持ち主だからでも、自分より賢く有能な女性だからでもなかった。

 

「これも全て、ユーガルド閣下のためですわ」

 

そう言いながら、テリオラはあらゆることに無知なアイリスのため、リネックとはまた異なる形でアイリスの不足を埋めようと時間を使ってくれる。

彼女が説明してくれる内容は、ユーガルドがアイリスを混乱させまいとあえて説明を省いている部分であり、その頑張りの仔細を知れる嬉しい情報でもあった。

ただ、ユーガルドの話をしてくれるテリオラの横顔がアイリスに気付かせる。

 

――テリオラ・ゴルダリオは、ユーガルドを特別に想っているのだと。

 

「――――」

 

同じ女だからなのか、接する時間の長さが理由か、アイリスはテリオラの想いを察してしまった。察した上での引け目があった。

テリオラのように美しく聡明で、ユーガルドのことを本気で想っている女性がいるのに、それでもユーガルドの傍にいられるのが、何の取り柄もなく、『茨の王』の傍にいられるというだけの自分であるということに。

 

「でしたら、おやめになられてはいかがですの?」

 

「え……」

 

真っ直ぐ、テリオラの琥珀色の瞳がアイリスの胸中の不安をはっきり言い当てる。

自分は、ユーガルドの傍にいるべきなのかと、そう怖じる弱い心を。

それを言い当てられ、アイリスはぎゅっと両手を握り――、

 

「――それは、嫌です」

 

きっと頬に力を入れて、アイリスはテリオラの言葉を強く拒んだ。

テリオラの言い分はわかる。言われるまでもなく、アイリスにも自覚はあった。が、相応しくないと自他共に思っていても、ここを離れ難い。

そのぐらい、アイリスもユーガルドのことを、いつしか想っている。

 

「それなら、沈んだ顔はつけ入る隙を与えるだけですからおやめなさいな」

 

アイリスの答えを聞いて、テリオラの視線の圧がふっと緩んだ。

それを受け、アイリスはテリオラがわざと険しい視線をぶつけ、アイリスの本音を引き出そうとしていたのだと気付く。

 

「今のあなたでは実務で閣下のお力になることはできませんわ。ですが、気持ちだけでも意思だけでも、閣下をお支えすることはできます。――他の誰にできなくても、あなたにだけはそれができる」

 

「……テリオラさん」

 

「口惜しいですわね」

 

短く、最後に付け加えられた一言がテリオラの本音だったのだろう。

アイリスは自分が恵まれているだけではなく、それ以上の幸運と、人にも恵まれていることを自覚し、俯きそうになる顔を無理やり持ち上げた。

そして――、

 

「テリオラさん、わたしに足りないものを教えてください。閣下は、わたしに今のままでいていいと言ってくれますけど、今のままでいたくないんです」

 

「――。まあ、私にそれを言うだなんて、なんて残酷な方ですの」

 

「あ、違っ!全然全然、挑発しようとかそういうつもりじゃなくて!」

 

口元に手の甲を当てて、上品に笑うテリオラにアイリスが慌てて弁明する。そう取り繕うアイリスがもっと面白かったのか、テリオラの笑い声はより高くなった。

そのテリオラの前で赤い顔を俯けながら、アイリスは思う。

 

――自分が自分をどう思おうと、始まる切っ掛けも続ける理由も、自分が作った。

 

「わたしは、わたしのできることで閣下をお支えしなくちゃ」

 

それが、自分にとって大きなところを占めるようになったユーガルドに対しても、彼に協力するヴォルカスやリネック、ウィテカーたちに対しても、そしてアイリスと同じようにユーガルドを想うテリオラに対しても、すべきこと。

 

「こほ」

 

「アイリス様?」

 

意気込んだ直後、小さく咳き込んだアイリスにテリオラが首を傾げる。そのテリオラの視線にアイリスは「何ともないです」と手を振り、

 

「はぁ、しまらないんですから、わたしは。……こほ」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

『――というわけで、細工は流々あとは結果を待ちましょうってところです』

 

「そうか。大儀であった。褒めて遣わす」

 

『いえいえ、閣下の御為ですから苦労だなんて。その分、報いてくださるのでしょう?』

 

恭しく頭を下げたまま、物怖じせず要求してくるウィテカーにユーガルドは苦笑する。

軽佻浮薄な印象を受ける男だが、その働きぶりと持ち帰る成果は申し分がない。さすがは代々の『選帝の儀』で、帝位を勝ち取った皇帝を支え続けてきた相談役の当主だ。

過去の『選帝の儀』では、ウィテカーやテリオラのゴルダリオ家を見つけ出し、味方につけることが勝利の絶対条件だったとされ、彼らとの接点を得た時点でユーガルドも帝位争いに大きく前進した実感はあった。

 

それでもなお、『茨の王』という風評には不安が付きまとうと考えていたが、ウィテカーはその不安に対しても適切な対処法を考案した。

 

「それにしても、よくぞあれほどの数の対話鏡を用意できたものだ。他の魔具と比べれば出土しやすいとは聞くが、容易いことではあるまいに」

 

『その無理を通すのが我が家の仕事ですよ。国内のみならず、各国に手のものを忍び込ませ、必要な情報や物を持ち帰る……カララギ都市国家のシノビみたいなもので』

 

「シノビか。諜報や潜入を専門とするものは攻防の要だ。帝国でも積極的に取り込むべき思想であろうな」

 

『ああ、失敗した。我が家の専売特許がばら売りされてしまう』

 

顔の前で両手を合わせ、ウィテカーがそう嘆く。が、惜しみなく情報を出しているようで、彼にはまだまだゴルダリオ家の培ってきた手札が多数眠っているはずだ。

そうでなければ、実際に『対話鏡』を百以上も集めることなどできるはずもない。

 

ウィテカーの考案した『茨の王』対策は単純明快――大量の『対話鏡』を用意し、それを同じ陣営の関係者や、『選帝の儀』で接点を持ちたい有力者にばら撒き、茨の縛めを回避した形で対話の機会を設ける手段を確立してくれたのだ。

 

『最初に閣下とお話させていただいた方法に味を占めまして。あのときはうまくいくか五分五分でしたが、大丈夫なことは自分の身で試しましたからね。あれがうまくいったんなら、あとは鏡をばら撒くだけでよかった』

 

「そなたの思惑は功を奏したな。見事なものだ」

 

『とはいえ、僕にできるのは閣下と相手を鏡越しに会わせることだけ。そこから相手の協力を引き出せたのは、閣下のお人柄によるものですので』

 

「余の人柄、か」

 

ウィテカーの言葉通り、『対話鏡』を挟んだ有力者たちとの交渉は好感触が多い。

その背景にはウィテカーと話し合った『茨の王』という風評と、実物との落差を利用した印象操作の影響も大きいだろう。

ただ、それ以上の理由がウィテカーの言ったユーガルドの人柄にあるのなら。

 

「それらは全て、我が星が余に教えてくれたものだ」

 

そう呟く瞼の裏、思い描くアイリスの表情にユーガルドの胸は熱くなる。

今、ユーガルドが生まれて初めて『生きている』と生を実感できているのは、アイリスとの出会いが全てを変えてくれたおかげだ。

そのユーガルドの呟きを聞きつけ、鏡の向こうのウィテカーは苦笑し、

 

『閣下はとかく、アイリス様を寵愛されてますね。テリオラの兄としては複雑ですよ』

 

「そなたの妹、テリオラはよく働いてくれている。我が星とも良好な関係を築いていると屋敷のものやリネックらから聞いた。よい妹を持ったな」

 

『ははは、褒められているのにその認識なのは実に哀れな妹だ。――それにしても、使用人やリネック殿たちからお聞きになった、ですか』

 

「――?ウィテカー?」

 

『いえいえ、閣下のお手元を忙しくしてしまっている手前、思うのですよ。なかなか、アイリス様とのお時間も取れずにいさせてしまっているなと』

 

見慣れた手癖、顔の前で両手をすり合わせるウィテカーの言葉に、ユーガルドは微かに目を細め、「そうだな」と彼の言い分に顎を引いた。

 

『選帝の儀』と、その後を見据えて忙しくしている現状、ユーガルドがアイリスと顔を合わせ、ゆっくりと言葉を交わす時間が取れていないのは事実だ。

無論、アイリスに不自由がないよう、屋敷での生活はこれまで通り侍女たちに任せ、リネックやテリオラも空き時間にはアイリスと交流を持ってくれていると聞く。たびたび、ヴォルカスが調練を抜けて、茶々を入れにいっているとも聞いているが。

 

「あれが余に仕える経緯を考えれば、我が星に対する深い感謝と敬意は納得がいく。調練に身が入っていないならともかく、その技量は随一であるからな」

 

『ヴォルカス殿ですか。いやはや、実際大した方ですよ、あれは。我が家の家業が家業ですので各地を巡りますが、あれほどの実力者はそうそう見ない。それこそ、『九神将』に名を連ねても不思議はないのでは』

 

「それほどか。そなたがそう言うなら、そうであろうな」

 

ヴォラキア帝国の武人の頂点たる『九神将』、そこに名を連ねる可能性をヴォルカスに示され、ユーガルドは素直にその評価を受け止める。

ウィテカーは成果や評価に嘘をつかないと、そうわかっているからだ。

ともあれ――、

 

「我が星とのことなら心配は不要だ。目算通りに帝位に就けた暁には、これまでの空白を埋めるよう誠心誠意努められよう」

 

『皇帝閣下に頑張らせるなんて、アイリス様も大物だ。……一点だけ、お二人の関係とは別の角度から憂慮が』

 

「憂慮だと?」

 

『ええ。――閣下はご存知なんですか?アイリス様が『茨の王』である閣下のお傍にいて、何ともないのはどうしてなのか』

 

そのウィテカーの指摘に、ユーガルドはしばし沈黙した。

彼が話題に挙げたのは、当然と言えば当然の疑問――ユーガルドの茨の縛めの影響を受けず、どうしてアイリスだけが傍にいることができるのか。

 

「――――」

 

正直に言えば、ユーガルドにその疑問を投げかけたのは彼が初めてではない。

茨の縛めはユーガルドと接する上で、最初にして最大の関門なのだから、一度でも茨の苦痛を味わったものは抱いて当然の疑問である。

だが、これまでユーガルドは一度として、その疑問に答えを出そうとしなかった。

 

初めてアイリスと出会い、自分の茨が初めて苦しめない相手と言葉を交わせたあの日から、ユーガルドは茨の気紛れを恐れ、今日まで過ごしてきた。

その疑問を暴かないことが、茨がくれた猶予の条件とさえ思えてきたのだ。

だから――、

 

「ウィテカー、そなたの働きと有能さは疑いようもない。この短期間で『選帝の儀』における余の出遅れをここまで取り戻せたのはそなたの貢献あってのことだ。だが……」

 

『この問題には嘴を入れるなと?ではやはり、閣下は存じ上げないんですね。どうしてアイリス様だけが閣下の特別でいられるのかを』

 

「――ウィテカー」

 

声の調子を一段落とし、ユーガルドはウィテカーに警告を送った。

それはユーガルドが彼に――否、他者に滅多に見せない静かな怒りだった。その先へ踏み込むのなら、暴こうとするのなら、容赦はしないという明確な意思表示。

鏡越しでも強烈なそれを浴び、ウィテカーはさっと両手を上げた。

 

『閣下の仰せのままに。出過ぎたことを言いました』

 

「以後、気を付けよ。そなたは替えの利かぬ働き者故、今回は許そう」

 

『出過ぎたついでに、先ほどの話じゃありませんが、一個だけいいでしょうか?』

 

「内容による」

 

ここですぐに話を切り上げ、鏡の通信を切らないウィテカーの胆力には驚嘆する。

そんなユーガルドの内心を余所に、ウィテカーは顔の前で手をすり合わせながら、

 

『先ほど閣下にお褒めいただいた我が妹ですが、どうです?よろしければ、閣下が帝位に就かれたあとの皇妃候補に加えていただくのは』

 

「ウィテカー、そなたの申し出は一考するが……」

 

『次代の帝国のため、世継ぎを大勢作るのは皇帝の義務。こればかりは、アイリス様お一人でというのはまかりなりませんよ、閣下』

 

「――――」

 

『アイリス様が五十人も百人もお子をお産みになるなら話は別ですが。仮にそれができたとしても、それで『選帝の儀』はその方が酷でしょう』

 

理路整然と、感情にも配慮したウィテカーの語り口には感服する。この話術こそが彼の仕事道具とわかっていても、ユーガルドも黙考させられる説得力だ。

 

――代々ヴォラキア帝国では、皇子同士を競わせ、より強く優秀な皇子に後を継がせるため、皇帝には多くの子どもを作らせる。

だが、どれだけ多くの皇子が生まれようと、生き残って皇帝になるのはただ一人。

歴代のヴォラキア皇帝の中には、真に愛した相手とのみ、子どもだけは作らなかったという愛情の表し方もあったと記録されている。

 

生まれた皇子たちは殺し合う。その、真に愛した皇妃との子が命を落とすことなど、自分の死後であろうと皇帝自身に耐え切れないからと。

 

『考えておいてください。兄の欲目がないとは言いませんが、テリオラはよく務めを果たします』

 

「――。考慮の一端には置いておく」

 

よく働く臣下への報いとして、この場はそう応じるのがユーガルドの最大限の誠意。それを受け、ウィテカーはそれ以上の要求を口にはしなかった。

ただ、彼とはこうして『選帝の儀』のことだけでなく、ユーガルドが帝位に就いたあとのこともよく話す。自然と、世継ぎの話についても避けられない。

可能であれば――、

 

「『選帝の儀』など……」

 

ヴォラキア皇族が兄弟姉妹で殺し合う血と炎の儀式など、なくしてしまいたい。

兄弟姉妹とほとんど交流がないユーガルドですらそう思うのだ。同腹の兄弟、親しい間柄の姉妹がいる皇子など、その葛藤は筆舌に尽くし難い。

本当に、その壮絶な儀式がなければヴォラキアは強国の矜持を守り切れないのか。

だから、ユーガルドが実際に皇帝となれたなら――そのときだ。

 

「――――」

 

不意に、執務室の部屋の温度が上がった感覚にユーガルドは眉を上げる。

次いで、その呑気な反応を叱咤するように髪や額が熱に煽られた。バッと弾かれたように上げた視界、そこにそれまでなかったものが飛び込んでくる。

 

――それは何もない空間から伸びた、剣の持ち手だ。

 

空の鞘に刀身を呑まれたそれは、常外の理が働く力によって鍛えられ、このヴォラキア帝国の始まりから伝わり続ける伝説的な一振り――『陽剣』ヴォラキア。

それがユーガルドの目の前に持ち手を突き出している。

その理由は――、

 

「どうやら、父上……皇帝閣下が崩御された」

 

『――。では、陽剣が?』

 

「そうだ」

 

目の前の光景の真意を即座に察し、ユーガルドの呟きの意味をウィテカーが拾う。ユーガルドは椅子から立つと、宙から伸びる持ち手を見据え、手を伸ばした。

その柄を掴み、一拍ののち、空の鞘から一息に『陽剣』を抜き放つ。

 

「――――」

 

瞬間、美しい紅の刀身を宿した『陽剣』ヴォラキアが抜かれ、凄まじい熱波が室内に広がり、ユーガルドの髪や衣類をはためかせた。

そうして『陽剣』を構えるユーガルドの姿は、対話鏡越しのウィテカーにも見える。

彼は珍しく、喉を鳴らして息を呑み込むと、

 

『閣下、抜かれるなら一声かけてほしかった。一応、皇子の皆様が最初に陽剣を引き抜けるかどうかも、『選帝の儀』の試金石なんですから』

 

「そうであったな。余としたことが冷静でなかった。だが、そなたのこれまでの献身、無駄骨にはならずに済みそうだぞ」

 

『そのようで。――いよいよ、始まりますね』

 

「そうだな。だが、今は」

 

『――?』

 

「余が『茨の王』となってからは一度もお会いできなかったが、先代皇帝の、ラドカイン・ヴォラキアの死を悼みたい。――全ては、それからだ」

 

手にした『陽剣』の輝きを前に、ユーガルドは次の段階へ進みかける心を制し、自分がこの世に生まれ落ちる切っ掛けとなった父王の死を悼む。

その顔は肖像画で見るばかり、声をかけてもらったことなど記憶の彼方だが、それでも父王がいなければ自分は生まれず、アイリスとも出会えなかった。

 

「――始めるぞ、『選帝の儀』を」

 

鎮魂の祈りの最後に、ユーガルドが『陽剣』を掲げてそう告げる。

それを聞いたウィテカーが笑みを深め、

 

『忙しくなりますね。――『どらまてぃっく』にいきましょう』

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